黒猫 とのべい の冒険

身近な出来事や感じたことを登載してみました。

「黒猫とのの帰還 第三」

2013年02月10日 10時24分06秒 | ファンタジー
  今朝のこの町の気温は、マイナス20℃くらいまで下がったのではないかと思います。家の外へ出たら、凍り付いた空気に射しこむまばゆい日の光の中で、繊細なガラス細工のようなダイアモンドダストがきらきら揺れていました。

第3 馬たちの行方
 
 一ヶ月間の蓄積疲労がやっと癒えたとのは、ヴァロンとゆっくり話をしようと、久しぶりに隣町の彼の家に遊びに行くことにした。その日は暁彦運転の車に乗った。お土産にニワトリの有精卵を買っていくことになり、国道の長い登り坂の途中を右に折れて脇道に入り、さらに登り傾斜がきつい、狭い農道に入り込んだ。そこは車一台かろうじて通れる幅しかなく、相当前に舗装されたまま補修された形跡がない、穴ぼこだらけの走りにくい道だった。それが幸いした。車のすぐ前を鹿が走ったと思ったら、その鹿は道の真ん中に立ちつくしたのだ。スピードが出ていたら、鹿目がけて突っ込んでいただろう。
 驚いたことに、とのはその鹿に見覚えがあった。崖の上から子鹿を見下ろしていた鹿たちの中で、ひときわ大きな角をとのたちに向かって振るったあの鹿だった。
「との、いっしょに行ってもらえないだろうか?」その鹿はとのをのぞき込むようにして言った。
「君らが馬と別れたトンネルの向こう側で、我々の仲間と馬たちが大変な目に遭っているんだ。」 
 最近、気候の温暖化がひとつの要因になっているのだろうが、鹿が増えすぎてあちこちの地域で甚大な農業被害が出ていた。このままにしておくと、その地域の生態系への悪影響も危ぶまれるため、できる限り多くの鹿を処分する必要があった。これには銃による狩猟だけでなく、わなで生け捕りにした鹿を一定期間養育し、良質の肉を得る「養鹿(ようろく)」も試みられていた。こうした、人々の地道な努力が原因で、鹿たちの居住環境は日増しに悪化の一途をたどっていた。
「どんな劣悪な環境でも、生き抜こうとするのが野生の本能さ。」
 鹿は、人間の大義名分を笠に着たもっともらしいやり方に対し、それほど批判的ではなかった。
「許せないのは、鹿といっしょに野生の馬たちまで捕まえていることなんだ。」
 この山脈一帯に、どれくらいの数の野生の馬が住んでいるのだろう。三桁どころか百頭を下回るくらいの微々たるものかもしれない。馬の囲い込みは今始まったものではなく何十年もさかのぼるのだが、これ以上続けられれば、いずれ近いうちに群ごと消滅することは間違いなかった。
「ぼくはオーケーだよ。でもヴァロンといっしょでなければ、父さんたちが心配するから、ヴァロンに相談してみるよ。」
 とのは、子どものように輝く目をして、そう言った。
 ヴァロンはその話を聞くなり、あきらめたように言った。
「とのを止めることは誰にもできないよ。」
 そして、彼はもう少し寝かせて、と言って寝床にもぐり込んだ。
 ついに、とのとヴァロンは、鹿に連れられて旅立つ日が近づいた。しっかり者のヴァロンは昨夜から二匹分の荷造りに余念がなかった。猫には下着や服はいらないが、身だしなみは大切なので、毛並みを整えるブラシや、爪切りと歯ブラシと小さなタオルは必需品だ。食あたりや便秘、下痢に備えて胃腸薬をそろえ、道に迷わないようにコンパスを磨いた。それらを小さな風呂敷に包んで首に巻けば、旅猫スタイルの完成だ。
 一方のとのは、母さんと心ゆくまで取っ組み合いをし、父さんの手や腕を噛みまくって遊んだ。二匹は、今度は早めに帰ってくるよ、と言い残して出立したが、当てにはならなかった。

 トンネルまでの道すがら、大男の家の付近にやってきた二匹は、やはり素通りすることはできなかった。どっしりした古めかしい家は小さな集落から離れて山際にぽつんとたたずんでいた。重い玄関の戸をこじ開けると、高い窓から差し込む淡い光の中に人の姿が見えたが、あの大男とは比べようもなく小柄だった。
「親父はしばらく帰ってないよ。」すでに中年にさしかかった男は、気のない返事をした。
「近くの藪の中にでも寝転がっているんじゃないかな。」
 この男は大男の一人息子で、実家から離れ海沿いの町に住んで、そこで定職に就いていたが、父親から、家、土地、カネなど全財産を譲るから、仕事を辞めて実家に戻ってこい、と無理難題を言われていた。
 実家は、町から数十キロメートルも山奥に入り、それより奥には動物しか棲んでいない場所にあった。携帯電話や地上デジタル放送の電波も届かなかった。このことを妻や子どもたちに相談する気持ちにはなれなかった。しかし、それは息子自身の言い訳であり、ほんとうは彼自身が父親と住むことを生理的に拒絶していたのだ。
 彼は、父親から暴力や差別などのつらい仕打ちを受けたわけではなかった。個人的なことに意見されたり、指図されたりという記憶もなく、ほとんど自由気まま、ほったらかしで育った。
 困ったのは、体が弱かった母親が長期入院したときだ。父親は自分の食するものを山中で調達し、家にいる子どもの食事には無頓着だった。大男は、空腹のあまりぐったり横になった息子の姿を見ても気がつかなかった。小さな子どもが自分で食べ物を見つけるのは至難なことだ。母親が二週間ぶりに帰宅したとき、息子は餓死寸前のことさえあった。
 息子は物心ついて、父親と自分との違いがだんだんわかってきた。父親は、いつも自分の世界に閉じこもりがちで、特定の物事には粘着質的にこだわるが、その他のことにはまったく興味を示さないといった、マイペース型の典型だった。普段はもの静かで気にならないが、気分が高揚したときは子どものようにはしゃぎ回った。子どもにも、父親の性格は手に取るようにわかった。
 息子は、そんな単純な人間になるのは嫌だと思った。意識して父親と違う考え方をし、別の行動様式を取ろうと心がけた。その甲斐あって、大きくなるにつれて、父親には似ても似つかない、よくできた子どもだ、と言われるようになった。それがうれしくてたまらなかった。と同時に父親への疎ましさが増幅していった。
 高校の生物学の授業で、生物発生の起源の勉強をした後、息子が言ったこと。
「生物は、たった一本の遺伝子の紐を持ったままで分裂を繰り返した方が効率的に完璧な複製を作れるのに、両親から遺伝子を受け継いで、どんな形になるかわからない不確実な方向へ進化したのはなぜなんだろう? 僕の考えでは、生物には本来、親と違う生命体になろうとする意志が備わっているからだと思う。もしも親と自分とが瓜二つだったら、気持ち悪くてぶっ倒れてしまうよ。」
 彼は、真剣な顔をして同級生にそう洩らした。
 息子は、大学進学のとき、海を渡りなるべく遠い土地の学校を選んだ。入学後ほどなく、学校から彼の姿が消えた。数年して、母親が深刻な病気を発症したことを人づてに知り、実家の近くの町に戻り、母親とは音信を再会した。しかし、父親との関係を修復するつもりはまったくなかった。数年して母親が病死した後も、たまに実家を訪れたのは、父親を心配したのではなく、父親の不審な挙動を監視しなければと思ったからだ。

 大男は意外に近くにいた。一キロメートルほど川沿いを下ったところの隣家の庭に、彼は仁王立ちしていた。とのとヴァロンを見つけ懐かしそうな顔になった大男は、来訪の理由を聞くと、暗い表情で考え込んだ。
「用事ができたから、今日のところは帰る。」
 大男は、隣家の初老の男に大声で言い放って、のっしのっしと自分の家に向かった。
「あいつは、わしのおかげで補償金をたんまり手にしたくせに。」
 大男は、数年前に家の傍を流れる河川の改修工事の話が持ち上がったとき、隣家と手を組んで土地の収用に反対した。大男は、昔ながらの景観を保全したいと思ってその行動に出たのだが、国や町は、隣家の男に金銭をちらつかせて、大男の説得を依頼した。カネと引き替えなら、すぐにでも反対意見を取り下げたかった隣家の男は、ただちに応諾した。
 ちょうどそのころ、大男の妻の容態が思わしくなく、専門病院で高度な医療を受けるようアドバイスがあったのだが、その治療には莫大な費用がかかった。大男は金融機関から必要な金を借りるため、近所の男に保証人の依頼をしていた。
 近所の男は、大男に対し、保証人探しを止めて、河川工事へのクレームを取り下げ、国からカネを受け取った方がいいに決まっていると説得した。大男は妻の治療が緊急を要したため、やむなくその言葉に従った。補償金は予想以上に高額なものだった。
 世間は、大男のことを、カネに目がくらんで、それまでの主義主張を簡単に覆したと、面白おかしく噂し合った。彼は、妻が病気でなかったら、という言い訳が思い浮かぶたびに心が痛んだ。このことがあってから、近所の男とはことごとく反目するようになった。

 彼が帰宅すると、家にいた息子は町へ帰っていった。
 大男は子どもに去られ妻を亡くしてから、あまり人と関わらない生活をしていたが、七十才に手が届くころになったここ数年は、自給自足の生活を維持する軽作業と山歩きに、日々の大半を費やしていた。この生活を続けていると、自然界の深い霧に埋没したような気持ちの良さに浸れる反面、気持ちの張りが緩んでいった。そのうち山野の奥の菌糸類がびっしり覆う土の上で、人知れずたおれるような気がしていた。大男が、ただひとつ逡巡していたのは、例の埋蔵物のことを息子に伝えるべきかどうかだった。

 二匹は、鹿から聞いた馬と鹿たちの災難を、大男に詳しく語った。彼にとって、馬たちは昔からつき合いがあり、自分を理解してくれる数少ない仲間だった。
「よし、行くぞ。自分が誰かに必要とされていると思うと、実に気分がいいなあ。久しぶりに身体の中から力がわいてきたぞ。」
 大男が大きなかけ声をかけて立ち上がると、床板がみしみしと音を立てて揺れ、二匹の身体が数回跳ね上がった。
 TNKトンネルは、龍高岳連峰の腹の中をほぼ直角に貫いていた。トンネルに飲み込まれた二匹は、千メートル以上もの厚さの岩石や土や木や草が頭上に積み重なっていることを想像すると、暗闇から少しでも早く抜け出したいというせっぱ詰まった気持ちになった。できる限り早足で走ったのだが出口の光はなかなか見えてこなかった。確かに徒歩で入るには長すぎるトンネルだった。と同時に、このトンネルを抜けた先の情景がどうなっているのか、不安でたまらなかった。
 トンネルをくぐり抜けると、下り勾配のきついどろどろの雪解け道が延々と続いた。道沿いのぼうぼうに伸びた雑草の中に、人から見捨てられて年数を経た小さな集落や畑だった土地がときどき現れては消えた。平地に近づくと、雪解け後の湿った表土を起こした真っ平らな畑が見えてきた。牛を飼い、その飼料を栽培する農家の建物は決して美しくはなかったが、生き物の住む感触がそれらの景観に活気を与えているように感じられた。一方で、鹿や馬たちがさえぎるものがないこの平地をどうやって突っ切ったのか、ますます心配になった。
「あの防風林の陰に建っている大きな畜舎の中に、みんなつながれているんだ。」と鹿は言った。そこは観光牧場で、ポニー種の馬やヒツジ、ヤギ、ウサギなどの各種の動物を飼い、客に見せていた。
「ここなら馬や鹿たちは楽しく暮らせるんじゃないの?」とヴァロンが言うと、鹿は怒った様子で言った。
「俺たちは人から餌をもらわなくても生きていけるんだぞ。」
「ごめんなさい、冗談でした。」ヴァロンがしょげ返った。
 彼らは丈の高い草原にかくれ、暗くなるのを待つことにした。力ずくで奪い返せば、必ず恨みを買ってしまうから、暗闇に紛れ、牧場の人に気づかれないうちに逃がそうということになった。

 ちょうど、ほぼ新月に近い真っ暗な夜だった。見つかっても疑られたり捕まえられたりしない猫二匹が斥候に出された。二匹は、防風林の根元に身を隠しながら進み、観光客が大勢入場できる倉庫のような畜舎にたどり着いた。道路をはさんで向かい側に、五つ六つ並んだプレハブの建物のひとつには灯りがついていて、その前に車が一台止まっていた。少人数が常駐しているのだろう。畜舎には猫がくぐり抜けられるくらいの小さな穴がいくつも開いていたので、二匹はこそこそと畜舎の中に入り込んだ。すると、たくさんの種類の息づかいがあっちからもこっちからも聞こえてきた。その中には、間違いなく馬のものと思われるブルブルという鼻息が混じっていた。
 とのは、小さな声で馬の名前を呼んだ。そのとき二匹は、突然淡い色の不思議なサーチライトを全身に浴びたのだ。よく見ると、そのやさしい光は、畜舎に収容されたたくさんの動物たちの目から発する光だった。二匹はお芝居の舞台に上がったような気持ちになって、観客に向かってうやうやしくお辞儀をすると、あの知り合いの馬たちと鹿の家族が二匹の前に現れた。こうして待機していた男たちにそっと畜舎の扉を開けてもらい、無事に彼らを解放することができた。
 この場所まで案内してくれた大きな鹿は、仲間たちとともに山脈へ帰っていった。大鹿は、別れ際に馬たちとしっかり握手して、馬の群に紛れ込んで猟師の鉄砲から何度も身を守られたことを感謝していると告げた。
 馬たちが捕まったいきさつはこうだった。トンネルを北上していたとき、中間点を過ぎ、下り坂に入って並足から早足に加速した矢先、車のヘッドライトが前方から突然矢のように飛んできた。人間たちは、トンネル内でライトを消して待ち伏せしていたのだ。先頭を行く若い馬が目がくらんだ拍子に、両脚で車のフロントガラスを突き破って停止した。双方に怪我はなかったが、危険な待ち伏せだった。捕まった馬たちのうち、年寄り馬は食肉用に、壮年の馬は「ばん馬」用に、子どもは観光牧場用にと分類され、売り払われようとしていたところだった。
「わしたちは、自由気ままな生活を、もう、あきらめなければならないんだろうか。」「無理に持ちこたえる意味があるんだろうか。」馬たちは意気消沈した様子で口々に言った。大男はいても立ってもいられないという様子で、地団駄を踏んだ。
「人間には、他の生物の種を滅ぼす権利なんかないんだ。もしこの行為をやめないなら、この俺が人間たちに鉄槌を下してやるぞ。」大男は辺りをはばからない、びんびんと響く声で言った。
「鉄槌って、丸ごと鉄でできているの?」とのがおずおずと聞いた。
「ぼくたちには持てそうにないな。」ヴァロンが言った。

 夜の深い闇の中を、人と猫と馬の集団は、怒りを押し殺しながら無言でさまよった。野生の動物たちは、地平線か星しか見えない荒野のただ中にあっても、彼らの鋭い方向センサーによって目的地に到達できるはずなのに、この夜は、自分たちがどこへ向かっているのかルートを見失うことが再三起きた。それほど、彼らははっきりとした行き先のイメージを持てなくなっていた。彼らの姿は、人が住んでいない世界のありかを探し求める夢遊病者のように、うなされているとしか見えなかった。
「ぼくたちがこんな酷い目に遭っていることを、みんなは知っているんだろうか?」
 とのは、この馬たちの惨状を放っておけなかった。
「人が住まないこの広大な土地は、ほんとうは人の手によって外界から隔離された人工的な自然なのだ。やつらは、この空間に残った生き物が自滅する様子を意地悪くじっくり観察しているんだよ。」
 大男は平静を装って言った。
「馬や鹿たちを解放する方法はあるんだろうか?」と二匹は同時に言った。
「あぁ、あるさ。この山脈の奥深くに棲んでいる龍の力を借りるのだ!」
 男は確信ありげにこう言うと、急にスピードをあげて歩き始めた。彼は、まず自分の家に馬たちを避難させ、そこで前後策を練ることにした。

「ちょうどここだったよね?」
 とのがヴァロンに同意を求めるように言った。そこは以前、鹿の群が子鹿を置き去りにした斜面の近くだった。
「見に行ってこよう。」
 ヴァロンは走り出そうとするとのをさえぎった。
「現場を見てどうするんだ。」ヴァロンは語気を強めて言った。
「うん、あのときの印象が薄まらないように、勇気を出して見に行くんだよ。」
 とのは、子鹿を目の前にして何もできなかった自分が情けなかった。今度は目を背けるような意気地のないことをしないと、改めて誓うためにも見ておきたかった。とのの気持ちを察したヴァロンは黙ったまま後に続いた。崖の下の子鹿が座り込んでいた付近には、雪解け水を十分含んで、きらきらと芽吹き始めた淡い緑色の雑草が、南から吹く海風を受けて、同じ方向にさらさらと揺れていた。草丈は短く、そこに何か物体があれば、すぐ目につくはずだった。
「そんなことがあったのか。」大男は大きなため息をついた。
「力のない者は群の足を引っ張るから、いっしょに連れて行くわけにはいかなかったんだろう。」
「力の弱い者は必要ないということなの?」とのは納得できなかった。
「あのとき子鹿は静かにうずくまっていたね。」ヴァロンが言った。
「そこにじっとしていることが大きな意味を持つことを、つまり、自分が果たすべき役割を小さいながらに自覚していたんだろうね。」馬たちが低くいなないた。
「誰もそれを望んだわけじゃないが、仕方なかったんだろうな。」とヴァロンがしんみり言った。
「みんなを危険な目に遭わせないため、犠牲になったってこと?」と、とのは目を真っ赤にして言った。
「自ら望んで犠牲になるのは悲惨なことじゃない。英雄的行為として永くほめたたえられるんだよ」と馬たちは自らを奮い立たせるように、大きな声で言った。しかし、とのは、仮にヴァロンが犠牲になろうと言い出したら、彼をほっといて逃げることなんて考えられなかった。
「それなら、いけにえを差し出して助かろうとするのと、まったく同じことじゃないか!」
「我々の運命を左右するような、強大な力を持つ者の前では、そうするしかないんだよ。」馬たちの声は震えていた。
「そんな上等なヤツなら、いけにえをほしがらないで、みんなのためにボランティアでもしろ!」
 とのは、自然の摂理だとか、みんなのためには仕方がないと納得しようとしている周囲の雰囲気に、いらだたしさがこみ上げた。
 大男がまあまあというように、話に入ってきた。
「わしの知ってる熊祭は、いけにえとはまったく無縁の祭だ。祭る者も祭られる者も互いの心の中に、喜びと感謝の気持ちが満ちあふれているんだ。」
「でもお祭りされたって、死ぬのはいやだ。」と、との。
「そうだ。死は必ず来るが、自ら望んではいけない。ましてや他の者の死を要求するのは最低だ。」

 一行が大男の家に着くころには、全員くたくたに疲れていた。とのとヴァロンはネコなので、縄張りの確認のため大男の家の中をくまなく探索することにした。玄関先の広い土間から部屋に上がると、そこは一度入ったことがある黒光りする頑丈な板敷きの部屋で、今は使われていない囲炉裏に蓋をして、大きな鋳物のストーブが置かれていた。奥のガラス戸の向こうには台所があって、そこは十人もの大人が立ち働くことができるくらい広く、流し台の付近に手押しポンプの柄が見えた。板の間の左手は畳敷きの二十畳もあろうかという薄暗い居間だった。ぴったり閉じた障子の向こうの縁側には強い光が差し込んでいたのだが、ほこりが分厚くついて茶色に変色した障子紙は、ほとんど光を通していなかった。居間の奥のふすまを開けるとそこはいちだんと暗い仏間になっており、その暗がりの中に人の背丈ほどもある仏壇が息を詰めて黙りこくっていた。
 玄関の土間から、居間と仏間の横を通って、まっすぐ奥に伸びる廊下があった。その廊下を行くと、居間と仏間の向かいに小さめの和室が三間続き、いちばん奥の広い和室に突き当たった。今は無人となったこれらの和室には、大昔、三代にわたる家族が住んでいた名残のタンスや卓袱台、コタツなどの古めかしい家具がそのころのまま残されていた。押入のふすまはぴったり閉まっていて、中に布団が入っているかどうかわからなかったが、長年のほこりさえ掃除すればすぐにでも住めそうな気がした。
 二匹は、板の間の端から狭い階段を伝って、天井の低い二階に上がることができた。そこは物置代わりのスペースになっていて、彼らは、ほこりまみれの長びつ、茶箱、小さな化粧箱や、なんのために使われたかわからない調度品などがびっしり並ぶ板敷きのすき間に落ち着いた。馬たちは、母屋の裏にある大きな納屋の藁の上に陣取ってくつろいだ。
 とのとヴァロンがいる二階の奥には小さな明かり取りの窓があり、薄汚れたガラスを通して下流にある隣家が見えた。ちょうど大男が隣家の主人らしき男と、またなにか言い争いをしている様子だった。
「何回も言うようだが、跡継ぎがいない家は、早いとこ、見切りをつけなきゃならんだろ。家屋敷と田畑、山林全部引き取ってやるから、息子がいる町にでも落ち着いたらどうだ。」と隣家の男が大男に言い放った。
「もう一度言ってみろ。お前の悪事をみんなにばらしてやるからな。」と大男は大きな顔を真っ赤にして怒鳴った。
「何を言ってやがる。最後まで、環境破壊はダメだ、動物の住処を破壊してはダメだと押し通せばよかったんだ。きさまだって、カネに目が眩んだんだろ」
 互いに一歩も引く気がない勢いだった。悪事というのは、大男の弱みにつけ込んで公共事業に賛同させ、大金を手にしたことだった。
「お前の息子がここから早く出て行ったのは、実に賢かったよな。お前と関わりを持つくらいなら、カネも家土地も何にもいらねぇ、と言っているそうだぞ。それにしても、お前のかかあは、ほんとに苦労のしっぱなしで可哀想だったな。お前が殺したようなもんだわ、ほんとに。」
 隣家の男の言葉には大男を逆上させるのに十分すぎるトゲがあった。
「なにぃ!」
 大男は大声を上げた次の瞬間、力の加減をすっかり忘れ、熊のように頑丈な握り拳を、隣家の男の顔面に思いっきりたたきつけた。砂袋のような丈夫なものが一気に潰れるドスンという鈍い音がして、木の切り株で作った椅子に座っていた隣家の男の身体は、一メートル以上吹っ飛んで地面に横倒しになった。倒れた男の片目と鼻は潰れ、そこからどくどくと血が吹き出した。
 それを見た大男はすぐ興奮からさめ、おい、おいと声をかけたが、ぐったりした男は反応がなかった。横たわった男の作業着の胸ぐらをつかみ激しく揺すったがダメだった。
「やってしまった!」
 大男は頭を抱えしばらく旧知の隣人を見下ろしていたが、急に体の向きを変えると、川と反対側の山林の中へ飛び込んだ。
 とのとヴァロンは、目の前で繰り広げられた惨劇の一部始終を見て、転がるように隣家へ向かった。二匹が到着したとき、隣家の男は息を吹き返して咳き込んでいた。片目が潰れ鼻がぶらぶらして顔中真っ赤だったが、命にかかわることはないようだ。二匹は自業自得の男をほったらかし、大男の後を追って、山林の奥へ続く道を走った。辺りが真っ暗になり、猫の目でも探しにくくなったころ、あきらめて大男の家に戻った。馬たちも心配してその夜はみんなでかたまって寝た。

 大男は山林の中をやみくもに歩くうち、殺人者として捕まる前に、馬たちを密猟した人間をなんとしても探し出して、制裁を加えたいと強く思った。彼は、密猟者をなん人か知っていた。なかでも悪質な密猟を繰り返している男を思い浮かべると、全身からその男への憎しみが沸いてきた。
「よし、あいつを殺ってやるぞ。」
 大男は、熊のように吠えながら、闇の中に横たわる険しい谷を幾筋も横断した。夜の寒気を防ぐため、熊の皮を頭からかぶって歩く男が近づくと、山の動物たちはおびえたようにじっと動きを止めた。山林の中には、大男が踏みつける草や枯れ木や土塊や凍った雪塊の潰れる音と、彼の苦しそうな息づかいだけが聞こえた。
 大男は、夜明け前に最後の谷を横断し、目的の場所近くの東に開けた山の斜面に出た。ちょうどはるか遠くの空がわずかに明るさを帯び、その下に空と同じ色をした海面が広がっていた。去年から葉を落としたままの木々の梢が、その明かりの中に黒々と浮かび上がった。幾羽かの鳥たちがかすれた声を上げた。大男は、かすかな明かりを感じて、目を覚まし始めた辺りの透明な情景に、心を奪われて見入った。
 そのときだった。空気が一瞬にして裂けたかのような、激しい爆発音が鳴り響いた。鳥たちが、羽音ともうめき声ともつかない音を発して、一斉に飛び立った。爆発音は、鳥たちがたてる音によって瞬く間にかき消され、その音がどれくらい大きかったか、すぐにわからなくなった。大男は、ほんのり赤くなった海に向かって、次から次と飛び立つ無数の鳥たちの躍動感あふれる姿を感動の面もちで見たが、その瞬間、頭に大きな衝撃を受けて一切の感覚を失った。彼の頑丈な体は、その場から数メートルもの空間をはじけ飛んだ。
 昨夜、この近くの民家の畑に熊が現れたため、数人の猟師が、熊の狩猟用のライフル銃をかついで早朝から山に入っていた。熊皮を身につけた大男は、薄暗い山林の中では、熊と見分けがつくはずがなかった。猟師たちが恐る恐る大男に近づいたとき、すでに彼の反応はなかった。

 翌朝、空が白み始めるとすぐに、とのとヴァロンと馬たちは山野に入り、日が暮れるまで大男を探し歩いたが見つけることはできなかった。夜になって、大男の息子が慌てた様子でやって来て、遠くの山中で狩猟中に事故があったことを語った。それは熊撃ちの猟師が、熊といっしょに誤って人を撃ってしまったらしいという知らせだった。
「撃たれた男の風貌が、親父にそっくりなんだ。」
 とのは、昨夜大男を探しに行かなかったことを泣いて悔やんだ。しかし、猫の暗闇をはっきり透視する目、匂いと方向性を鋭敏に感知する鼻、そして他の動物より秀でた繊細な聴覚をもってしても、真っ暗闇の中、行方をくらました熊のように俊敏な大男を追跡することは不可能だったのだ。
「ぼくらには探し出せなかったんだ。できなかったことを後悔しても仕方がないよ。」
 ヴァロンは、悲しみに打ちひしがれた自分の気持ちを押し殺してそう言った。
 大男の息子は、父親の唯一の友達と言っていいとのたちには、いつまでも大きな古い家に滞在してもかまわない、自分たち家族もいつかこの家に戻って来たいと言った。主人が不在になった大男の家と田畑と山林は、数年も経たずに周囲の自然にとけ込んで、野生の動物や虫たちの遊び場になることだろう。定住動物ではない馬たちは、一年を通じてそこに住むことはないのだろうが、年に数ヶ月、ゆっくりと休養できる場所ができた。それが大男の望みでもあったはずだと、とのは思った。(第3 馬たちの行方 了)





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする