最近、筑摩書房の明治文學全集全百巻が復刊された。文学の香ばしい薫りの記憶がよみがえる。私がまだ二十歳代のころ、何がきっかけだったのか思い出せないが、この明治文學全集を手に入れようと、出版元に直接かけ合ったことがある。古本屋どころか、新刊本もほとんど置いてないような本屋が一、二軒しかない辺境の地に住んでいたころのことである。
全集は発刊途中だったので、既刊本だけ購入しようとしたのだが、数年前に発刊された巻のいくつかがすでに品切れになっていた。現在、本箱に収まっている巻数を数えたところ二十九冊ある。定価三千五百円をかけると約十万円にもなる。当時、数万円の月給取りがよく買ったものだと思う。財政負担が重すぎたためか、そのとき続刊を予約しなかった。全巻完結したころには、私の収集熱は別の本へ移っていた。
持っている本をすべて読み通すことはとうにあきらめている。本に限らず、収集家というのは持っているだけで十分幸せなのだ。十年に一度くらい、何かの折に古き文豪たちの名前を耳にして、蔵書の中から埃っぽい本を抜き取って、彼の生きた時代の空気を吸い込むだけでいい。
「坂の上の雲」がNHKテレビで放映されたとき、この全集や子規全集を取り出して、彼の作品にはこのようなものがあるのだぞ、と蘊蓄を述べたときの気分の良さは、この世のものとは思えなかった。このとき、子規を支えた陸羯南(くが かつなん)の論攷が明治文學全集の政教社文学の巻(37巻)に出ていることを初めて知った。
本には、著者と同時代に生きているというような感覚をよび覚ますと同時に、その本を手にした自分が、ページに目を走らせたころの匂いや陽射しを思い出すものだ。とくに古本屋の片隅に積まれた名も知らない著者の古びた本に出会い、書き出しの数行の文字がすっと自分の感覚に溶け込んだときの不思議な気持ちはなかなか忘れられない。
そのような本を出そうと思い、「ユメミテ書房」という個人出版社を立ち上げようと、今、画策している。(2013.4.5)