黒猫 とのべい の冒険

身近な出来事や感じたことを登載してみました。

母親の紙幣

2014年04月23日 08時56分15秒 | ファンタジー

 長く親しんだ者らとの別れはなかなか辛いものだ。
 私が初めて亡くした親族は祖母だった。子どもの時代へ記憶をさかのぼらせると、母親よりも祖母の登場回数の方が多いくらいだ。二十代半ばで祖母の死に立ち会ったとき、私は心の底から後悔の念がわき上がり泣いた。高校を卒業して実家を出た後、親に会いたくないために、ほとんど家に帰ることがなく、したがって祖母とも疎遠になってしまった。ただ、八十八歳の米寿のお祝いを親族一堂が集まって祝ったときは、私も北海道の北の端から参加した記憶がある。
 愛猫「との」の死に関しては、「黒猫とのの冒険」に書いたとおりだが、子どもに死なれたような悲しさは何年も尾を引き、その後も、とのの思い出は胸の内から失われることがない。
 次に亡くなったのは父親なのだが、半年あまりの闘病生活と亡くなった後の様々な手続きに忙殺された記憶が濃厚に残っているだけで、多くの感情はすでに消え去っている。
 母親が亡くなってからおよそ六年経った。私は、この間一度も悲しさに打ちひしがれるようなことはなかった。世間体を第一に考える母親とは、もともと折り合いが悪かった。地球の北の辺境と南の岬に住む者とが、運命のいたずらで親子になってしまったというくらい、価値観の奥底からまったく食い違っていた。母親の一挙手一投足に感情が苛立ち、神経はよれよれに疲弊するのだった。
 母親は激しい性格だったが、父の具合が悪くなる少し前からぐんぐん酷くなり、電話などでむやみに感情を爆発させた。私の家族、「との」や「はな」にまでその怒りの矛先は向いた。怒るかと思えばめそめそすることを繰り返した。私は以前にも増して、母親を見たことのない動物のように冷たく突き放し、無関係を装うのだった。
 あるとき、親戚を巻き込んだ騒動が起きた。近所に住む親戚に対し、顎で使うやら暴言を吐くやらで、すっかり怒らせてしまった。私は息子として低姿勢にお詫びしたが、母親に対して心の中は煮えくりかえった。
 母親は、父が亡くなった直後、腰の圧迫骨折のため、入院生活を余儀なくされた。本人は早く退院して家に戻りたかったのだが、半年に及ぶ入院ですっかり体力をなくし、単独生活はほとんど困難になった。退院後、家に戻る望みが絶たれた母親は、しぶしぶ高齢者施設に入居した。施設では建物内をあちこち歩き回る自由はあったのだが、母親は共同利用のエリアにいることを嫌がり、一日の大半、四畳半くらいの自室のベッドに寝転がっていた。テレビを見るでもなく、もちろんおしゃべりするのでもなかった。施設が催すレクリェーションに参加することもなかった。
 母親は、金銭感覚に鋭いところがあった。父が亡くなった直後、相続の手続きを開始するとき、母親は、細分化された父名義の預金などがどこにどれだけあるか、ちゃんと覚えていた。そして押し入れの奥から箱を取り出し、その中から父親の筆跡で書かれた「私、○○○名義の預金等の資産は、すべて妻○○○に相続させる」という紙を引っ張り出して、私たちに見せた。
 施設では、日常生活の必需品は何でもそろっていて、不足分や嗜好品は私たちが届けていたので、定期的な床屋代や診療代を除き、ほぼお金がかからないシステムだった。ところが、母親は私が訪れる度に、決まって小遣いがないからおいていけと言った。使用目的を言いたがらなかったが、手許に金がないと不安になるのだろうと、数千円ずつ渡した。いつしか私は財布のポケットに、母親用の紙幣を必ず入れておく癖がついてしまった。
 母親は亡くなる少し前、持病の肝硬変が悪化し、施設から身の回りのものだけ持って、系列の病院に入院した。三ヶ月後、施設から退去することになり、部屋にあった家財すべて、実家に運び込んだ。しばらくして母親は意識不明になり、約二週間後、苦しみもしないで息を引き取った。
 母親が病院に持ち込んだバックなどの私物を処分するとき、ふとあることに気がついた。一年以上渡し続けた小遣いの額はかなりのものになっていたはずだった。しかし、数枚の千円札と小銭の入った小さな財布以外、どこにも金が見当たらないのだ。実家に置いたタンスの中などからも何も出てこなかった。
 今年は母親の七回忌だ。私はまだ、母親用の紙幣を入れていた財布のポケットを空にすることができない。(2014.4.23)
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