<筑波山の風景・12>
石塔
茨城南西部に生まれ育った者にとって、その原風景に筑波は根を宿している。
それぞれの地域から仰ぎ見る容姿は瞼の裏に焼きついていることだろう。
筑波の歴史は、人々の生活に密接に関わり合っている。
筑波神社の創祀は遠く神代に至るらしいが、御神体としての筑波男ノ神(いざなぎのみこと)筑波女ノ神(いざなみのみこと)
のニ神は日本の祖神(おやがみ)として「古事記・日本書紀」にも記される所から、
それ以前より、信仰の対象として仰がれてきたことは言うまでもないだろう。
その証に、筑波神社の境内社は20を超え、山中深くに祠を見ることも多い。
時にその正体の明らかにない石塔も。
そのカタチから宝篋印塔(ほうきょういんとう)の上部と見える。
宝篋印塔は、元来、宝篋印陀羅尼を納める石塔であったが、鎌倉期以降は宗派を超えて造立されるようになった。
滅罪や延命の利益から、後に供養塔、墓碑塔として造立されるに至った石塔である。
信仰の山の多くは神を宿す。
中には「神」として、人とは隔絶した世界観、畏れや敬いをもって尊ぶこともある。
しかし、人、生活との関わりの中で皆に愛されてきた筑波山から受けるさまざまな恵みの数々は、まさに神からの賜物であったのだろう。
sak