風と光
そこは風が吹く、風の源。
風は眼には見えないけれども、
僕らの胸を膨らませてくれる、
あぁっ、生きてる、息、吹き込まれる
感じるでしょ。
そこは光り輝く 光の源。
光は眼には見えないけれども、
僕らの胸を熱くしてくれる、
あぁっ、許され、灯り、燈される
感じるでしょ。
風と光の源。あなたほど
生きる勇気をあたえてくれるものは
ない
風と光
そこは風が吹く、風の源。
風は眼には見えないけれども、
僕らの胸を膨らませてくれる、
あぁっ、生きてる、息、吹き込まれる
感じるでしょ。
そこは光り輝く 光の源。
光は眼には見えないけれども、
僕らの胸を熱くしてくれる、
あぁっ、許され、灯り、燈される
感じるでしょ。
風と光の源。あなたほど
生きる勇気をあたえてくれるものは
ない
「悪い良心」ほど恐ろしいものはありませんね。私は、悪魔とは、この「悪い良心」に「人間を上下2つに分けるウソ」が入り込んだものだと、確信しているくらいですからね。
p361の9行目途中から。
「悪い良心」を少しは癒すためには、精神分析の治療が、忘れてしまっていた、心の奥ソコにある、子どもの頃のことで、しかも、神経症の苦しみの根源的な原因になっていることをまず明らかにして、その次に、人間のポテンシャルがピカリと光る宝物であることをハッキリと示すことに開かれていかなくてもなりません。そのことが分かれば、今まで見てきたように、イエスが子どもについて語った言い伝えに、ハッキリとした意味があることに気づかされます。そしてここにこそ、人生の大人の舞台にとって、アインシュタインという子どものような科学者が、世界の中に、「スピノザの神」の中に、どう生きていけばいいのかを生きる指針、オリエンテーションを≪私≫が探し出すときの「お互い様」の中に、深い宗教的な信念を抱いていたことも分かります。「お互い様」は、ここでは、≪私≫は、光一杯の心の眼と象徴的に同じことですが、何世紀にもわたって伝えられている言い伝えに中にあることが分かります。それは、マイスター・エックハルトが「私どもが神を見る眼は、神が私どもを見る眼と同じです」といったことと通じることです。
「お互い様」という、日本人にとってなじみ深いことに、もう一歩深い意味が隠されていることが分かります。「神様」を厳しく人を裁く存在だと見る「眼差し」があると、実際に、「神様」は人を実際に厳しく裁く「眼差し」を私どもに向けることになります。逆に「神様」は慈しみ深い寛容な存在だと見る「眼差し」があると、「神様」は慈しみ深く寛容な「眼差し」を私どもに向けてくださいます。
「神様→私」の眼差し=「私→神様」の眼差し
お互いさまには、こういう意味もあったんですね。
信頼には、自分が損をすることも覚悟するような勇気が必要みたいですね。いつも「自分が…」、「自分が…」という人だと、確かに、信頼もなければ、ましてや、自分が損する勇気なんぞ、かけらもないでしょうからね。
p117第2パラグラフ。
この勇気は、有名なホラ吹きムッソリーニが「危険を冒しても人を大事にしろ」とスローガンで用いたときに言った勇気とは、全然違います。ムッソリーニ流の勇気は、ヤケクソの勇気です。ムッソリーニ流の勇気は、人の命を破壊することに根差しているんですね。命を投げ出すのは、命を大事に思えないからなんですから。ヤケクソの勇気は、人を大事にする勇気とは真逆なのは、力に頼ろうとする気持ちが、命を信頼する気持ちと真逆なのと同じでしょ。
ヤケクソの勇気とは、カミカゼの、自爆テロの、秋葉原事件の勇気です。人と自分を殺すことになります。自分を大事にできず、したがって、「どうせ…なんだから」と言いながら、自暴自棄になってやる勇気です。何も信じられない勇気です。≪超越≫を知らずじまいの勇気です。
人を大事にする勇気は、アンパンマンの勇気そのものでしょ。クリスチャンなら、イエス・キリストの十字架の勇気でしょうね。ボンヘッファーがイギリスからドイツに戻ってきた勇気でもあります。自分の損は覚悟で、「社会的連帯のため」、先様のため、人様を助けるために、自分をお役に立てたいと願いながらの勇気です。自分が損することも覚悟できる勇気は、信頼が豊かな勇気であると同時に、≪超越≫のありがたさが身に染みている勇気でもあります。