エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

グルメな世の中

2014-11-24 13:27:46 | エーリッヒ・フロムの真まこと(の行い)

 踊りと巻き上げに注意。

 p80下から2行目から。

 

 

 

 

 

 世の中は、バカデッカイ食べ物になっちゃいます。デッカイりんご、デッカイジョッキ、デッカイおっぱい。私どもは赤ちゃん、ずっと待つ者、望大き者、そして、ずっとガッカリしている者。私どもの性格は、モノとモノを交換したり、受け取ったりする存在以上、物々交換したり、消費したりする存在以上でしょ。でもね、あらゆるもの、それがスビリチャアルなものでも、物質的なものであっても、交換するもの、消費するものになっちゃいます。

 

 

 

 

 ものを交換し、消費するだけじゃぁ、モノと変わらない。スビリチャアルなものまで交換し消費するのがアメリカの、フロムの当時の社会だった。日本じゃぁ、スビリチャアルなものと言って、せいぜいパワースポットでしょ。パワースポットも単なる消費財でしょ。

 なぜ、現代人はこんなになっちゃったのかな? システムが巨大化したから、というのも大きな背景の一つでしょ。でもそれだけじゃぁない。

 問いを持って生きる、ということが大事でしょ。たとえ、ずっとその答えが分からなくてもね。

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本気と無理の間

2014-11-24 11:22:57 | エリクソンの発達臨床心理

 

 今日のタイトル、どういう意味かって?

 それはね、本当の自分に対する態度であると同時に、子どもに対する態度のこと。

 私は小学生の母親と教員に会うことが多い。それはすでに何度も触れました。私は日々、本気を陽気で楽しくやってます。それで、愛着障害だらけの今どきの日本、学校教育は事実上崩壊してますから、学校では、最初に戻って子どもの発達をやり直さない限り、教育は無理です、という毎日。

 「教育は無理」と学校で言うキツさ。

 でも、そのことを言いたいわけじゃぁない。

 愛着障害の子どもは、愛着をやり直すしかない。エリクソンの言葉で言えば、根源的信頼感をやり直すしかない。愛着、ないしは、根源的信頼感を育むためには、母親の献身が必要でしたね。でも、今更おっぱいを挙げる訳には行きません。でも、母親があかちゃんに献身してやっていることを、小学生にはできる。どうやって?

 母親の献身。おっぱいを挙げるのでも、オシメを取り換えるのでも、あやすのでも、毎日毎日、一刻一刻、繰り返すでしょ。その繰り返しの間に、一定のパターンができます。そして、赤ちゃんが泣けば、やれ「おっぱいね」、やれ、「寂しかったのね」などとあ母さんは赤ちゃんに話しかけますね。そして、実際おっぱいを挙げたり、親したりしますね。赤ちゃんもその繰り返しの中で、おっぱいを貰う前に、あやしてもらう前に、どのように世話をされるのかの≪見通し≫≪イメージ≫を抱くようになります。繰り返しの中で、その≪見通し≫≪イメージ≫と、母親が話す≪話し言葉≫、それから、実際の世話という≪出来事≫が一致してきます。そして、≪見通し≫≪話し言葉≫≪出来事≫が結び付いていきます。

 この3つを一致させるためには、通常、≪約束≫が必要です。≪見通し≫を≪話し言葉≫を用いて共有し、それを2人で≪出来事≫にするのが、≪約束≫だからですね。

 愛着障害の子どもは、この≪約束≫に基づいた関わりが必要です。子どもが望んでいることを大人が共有する形で≪約束≫することです。その繰り返しによって、愛着≒根源的信頼感をある程度回復できます。

 そのことを毎日のように、愛着障害のある子どもの母親や教員に話、実践してほしいと伝えます。それをやるには大人の≪本気≫が問われます。

 時間をかけても≪本気≫になれる人、はじめっから≪本気≫の人もいますね。ありがたいことです。

 逆に時間をかけてもなかなか≪本気≫になれない人、はじめから「それは無理」と決めてかかる人もいます。

 その差は何かな?

 それはね、結局、自己内対話の有無。

 「何のための生まれ、何をして生きるのか?」の問いを何時も何度でも問う人は≪本気≫になれます。

 でもね、「何のための生まれ、何をして生きるのか?」の問いを問うのを止めちゃってると、「それは無理」になっちゃいます。

 あなたはどうする?

 

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子どもに必要なのは、大人の「真実な態度」 「真実な」=信頼豊か

2014-11-24 08:46:19 | アイデンティティの根源

 

 早熟の道徳性、早熟の良心は、禁物です。「正しい」ことよりも、「ホッとできる温もり」が何よりも大事だからですね。

 p224第3パラグラフ。

 

 

 

 

 

 実際に、私はここでご紹介しなくちゃならないのは、私の最初の「発達上の」前提の訂正です。その前提とは、子どもの頃に人の「道徳的な」傾向が発達することと、大人になってからの「倫理的な」力の発達の間に、「価値」に関する言葉で言えば共通善を受け入れる際、青年期のころに介入がある、という前提です。もちろん、発達の舞台のイメージが役立つのは、前にくる言葉が後ろのくる言葉にとって必要な場合と、後にくる言葉が次第に高い秩序になる場合の2通りで、1つの言葉が別の言葉の前に来ることが示された場合だけです。

 

 

 

 

 

 エリクソンの用語法で言えば、子どもの頃の道徳性と、大人になってからの倫理性とは何の関わりもありません。むしろ、反比例の関係でしょう。それは、こういうことです。

 大人の倫理的態度が高ければ高いほど、子どもは、道徳的である必要がありません。ですから、「ねばならない」と思って子どもが道徳的なことをする必要がない。大人に高い倫理的態度があるとね、「言ってること」と「やってること」が一致しますでしょ。言葉を「ウソとゴマカシ」のために使わない。どっかの安倍晋三首相のように「ウソとゴマカシ」だらけにはなれませんね。そうすると、子どもは大人から真実な態度を示され続ける訳ですね。言葉がなくっても、その子どもは自分の存在価値を認めてもらった、と実感してくれます。するとね、不思議なことですが、子どもは必ず「良いこと」しかしませんね。それが人間が持って生まれた美徳の一つだと、私は確信しています。

 

 

 

 

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