やり取り。とても単純な、やり取り。ごくごく当たり前の、やり取り。そんなにありがたみは感じないかもしれません。
私は、この単純素朴なやり取りほど大事なことは、この世の中でない、と確信しています。今日は皆さんに、この単純素朴なやり取りに対する、私の確信の一端を、お話したいと思います。
やり取り、子どもとのやり取り。それは、眼の前の子どもの「相手になる」ということです。やり取りには、この眼の前の子どもの「相手になる」ことになるから大事なんですね。
この「相手になる」ということは、上に示した「ラファエロの聖母子と聖ヨハネ」に示されているように、母子が見つめあう事から始まります。見つめあうことが「相手になる」ことのはじめなんですね。しかし、見つめあうことが「共に見る」ことの最初でもあるんです。ですから、「相手になる」ことは、意識と良心を子どもが育む最初になるんですね。それは同時に≪私≫の始まりです。人は「相手になる」、「見つめあうこと」なしに、意識も良心も、≪私≫=「本当の自分」=「ありのままの自分」を育むことなど、夢のまた夢。
「相手になる」ことには、心理的にどんな意味が、子どもにとってあるのでしょうか?
それはね。
「あなたは宝物だから、私は喜んで相手になります」
ということです。
逆に「相手にならない」で「忙しいから後で」などと言う場合はどうかな?
それはね。
「あなたは私が相手をするほどの値打ちもありません」「暇な時に暇つぶしで、会う程度の、御手隙になった時に相手をするのが適当な、つまらない、ちっぽけな存在ですし、ちょっとキツイ言い方かもしれませんが、ガラクタ同然ですよ」
ということです。
どちらを選ぶのかは、あなたです。
最近多いパターンです。