エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

やり取りより大事なことはありません

2014-11-08 14:36:16 | エリクソンの発達臨床心理

 

 やり取り。とても単純な、やり取り。ごくごく当たり前の、やり取り。そんなにありがたみは感じないかもしれません。

 私は、この単純素朴なやり取りほど大事なことは、この世の中でない、と確信しています。今日は皆さんに、この単純素朴なやり取りに対する、私の確信の一端を、お話したいと思います。

 やり取り、子どもとのやり取り。それは、眼の前の子どもの「相手になる」ということです。やり取りには、この眼の前の子どもの「相手になる」ことになるから大事なんですね。

 この「相手になる」ということは、上に示した「ラファエロの聖母子と聖ヨハネ」に示されているように、母子が見つめあう事から始まります。見つめあうことが「相手になる」ことのはじめなんですね。しかし、見つめあうことが「共に見る」ことの最初でもあるんです。ですから、「相手になる」ことは、意識と良心を子どもが育む最初になるんですね。それは同時に≪私≫の始まりです。人は「相手になる」、「見つめあうこと」なしに、意識も良心も、≪私≫=「本当の自分」=「ありのままの自分」を育むことなど、夢のまた夢。

 「相手になる」ことには、心理的にどんな意味が、子どもにとってあるのでしょうか?

 それはね。

 「あなたは宝物だから、私は喜んで相手になります」

ということです。

 逆に「相手にならない」で「忙しいから後で」などと言う場合はどうかな?

 それはね。

 「あなたは私が相手をするほどの値打ちもありません」「暇な時に暇つぶしで、会う程度の、御手隙になった時に相手をするのが適当な、つまらない、ちっぽけな存在ですし、ちょっとキツイ言い方かもしれませんが、ガラクタ同然ですよ」

ということです。

 

 どちらを選ぶのかは、あなたです。

 最近多いパターンです。

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やり取りの大切さ

2014-11-08 10:46:39 | アイデンティティの根源

 

 さあ今日から、エリクソンはどうしようかしらね。ルターに戻ろうかな? それとも、また浮気しちゃおうかな?

 今日のフロムに「黄金律」が出てきましたでしょ? エリクソンにも『気づきとやり取りの責任』(Insight and Responsibility)の第六章に「新しき気づきの輝きに照らされた黄金律」と題する、非常に重要な論文があります。今回は「これで生きましょう」という訳ですね。

 p219の冒頭の導入部。

 

 

 

 

 

 中心的な倫理に関して入り込むことなしには、新たな気付きによって与えられた責任について、人は長い間、考えることができません。私がその責任について考える勇気を初めて与えられたのは、ハーバード大学医学部で、医療倫理に関するジョージ・W・ゲイ講演を頼まれた時でしたね。その時発表されたテーマは、デリー大学のためになされたこれに続く講演や最終講義においてや、1963年1月、ニューデリーのインド国際センターで、繰り返され、また、詳しく論じられました。

 

 

 

 

 人が人とやり取りするためには、その人の強さ、ないしは、倫理的態度が必要です。その最大なものが、アンパンマンの精神、正しいことは自分が損をしてもやる、ということです。

 正しいことでも、自分が損をしないでやるものもあります。それはたいてい偽物です。

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ギブ・アンド・テイクじゃぁ、人を大事にすることになんない!

2014-11-08 07:01:56 | エーリッヒ・フロムの真まこと(の行い)

 

 資本主義社会では、商品は直接的に物々交換するのじゃない。あくまでも市場を介して交換されます。

 p120の第2パラグラフ。

 

 

 

 

 

 公平性の倫理は、黄金律の倫理と混同しやすいですよね。「自分が他の人たちからしてもらいたいことを、他の人たちにして差し上げなさい」という格言は、「他の人たちとやり取りする」という意味に解釈できます。でも、実際問題、この格言は、もともと聖書にあるもっと人気のある言葉「自分を大事にするように、あなたの隣の人を大事にしなさい」として出来上がったものです。現実に、ユダヤ・キリスト教の、兄弟愛の規範は、公平性の倫理と全く違うものです。兄弟愛の規範は、自分の身近の人を大事にすることを意味していますし、自分の身近の人の相手とやり取りする責任を感じることだけじゃぁなくて、自分と身近の人と一心同体だと感じることでもあります。だけど、公平性の倫理は、身近の人とやり取りする責任や一心同体だと感じることじゃぁなくて、むしろ、身近な人ともよそよそしく、別個のもとだと感じることですよね。公平性の倫理は、身近の人の権利を尊重しこそすれ、身近な人を大事にすることじゃぁない。黄金律が一番人気のある宗教的格言に今日なっていることは、偶然じゃぁありません。つまり、黄金律は公平性の倫理として解釈できるから、みんなが理解し、しかも、快く実践していることが、宗教的な格言なんですね。でもね、人を大事にすることを実際にやってみることは、公平であることと、人を大事にすることの違いを理解することから始めないとね。

 

 

 

 

 市場経済であれば、取引が公平であれば、それは問題なし、ということになりますよね。どちらも損はしてませんし、そこに「ウソやゴマカシ」があるなどとは感じない。でもね、本当に人を大事にしようとすれば、自分が損をすることは織り込み済み。アンパンマンの教えですよね。それはもう公平じゃぁないでしょ。

 ギブ・アンド・テイクしゃぁ、人を大事にすることにならない。

 自分が得するようじゃぁ、さらに、もっと、人を大事にすることにならない。

 

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