エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

ポスト3.11の視点で見た、蘇える内村鑑三

2014-11-27 11:27:46 | エリクソンの発達臨床心理

 

 内村鑑三といえば、堅いキリスト教の中でも、ことさらお堅い「無教会」(無教会キリスト者)の元祖。お堅い、偉い、近寄りがたいイメージが従来ありましたね。しかし、今回鈴木先生が取り上げた内村鑑三は、実に親しみやすく、人間的、しかも、ポスト3.11のヴィジョンを携えていることがはっきりさせる、「新しい内村鑑三」でしたね。
 第1回「迷いと慰め」では、実際接した弟子、志賀直哉や矢内原忠雄などの手になる、内村鑑三の紹介で、実に親しみやすい人だったことがわかります。不完全、至らなさのある内村が、そこにいます。
 第2回「現生と後世」は、内村の代表作『後世への最大遺物』が話題の中心。しかし、この本は今まで、「各分野の一流」の人の「バイブル」のように語られることが多かったと感じますが、鈴木先生は「失敗学の書」と位置付けます。「私はこんな失敗をしました。しかし○○でありたいと願って生きています」という本だというのです。その点、カナダ留学中の学生で、かつて不登校で苦戦した人も、『後世への・・』に復活の力を得ていることが紹介されているのが、慧眼です。そこに、目先の利益のためには、ウソとゴマカシをも辞さない、今の日本の主流とは別の視点がありますからね。
 第4回「真理と寛容」は、「真理は楕円形」という視点が実に実践的ですね。「真理が円」だと、それは「美しい」のですが、「自己中心」になりやすく、したがって、対話が閉じがちです。しかし、「真理は楕円形」となれば、その2つの中心(焦点)の間にやりとり、相互性、対話が生じますし、それが、他者、異質な存在、自分とは意見が異なる人との対話にも開かれる道があります。それが寛容の基として、きわめて肝要です。
 第6回「宇宙完成の祈り」は、原発事故のただ中にいるわれわれ日本人にとって、極めて重要なところです。足尾鉱毒のために、故郷を捨てて難民とならざるを得なかった谷中村の人々は、現在原発のために、故郷を失って、難民となっている150000人のひな形でしょう。この事態の改善には、明確なヴィジョンが必要なことが示されます。また、ポスト原発のエネルギーについて考えるとき、内村が
 「エネルギーは太陽の光線にも在ります、海の波濤にもあります、吹く風にもあります、噴火する火山にもあります、若し之を利用するを得ますれば是等は皆な悉く富源であります」
と述べているのにおどろかされますね、これは、まるでこれからの日本の歩みを90年前に預言しているかのようです。
 このように、本書によって、「ニュー内村」に必ず会えますよ。

 

 

 

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思い違いだらけ、ニッポン!

2014-11-27 09:01:40 | エーリッヒ・フロムの真まこと(の行い)

 

 「がんばれ、ニッポン」。東京オリンピック招致成功この方、また、耳にする機会が多くなった掛け声ですね。でもね、今日のは「思い違いだらけ、ニッポン」。ゴロが悪い。

 

 

 人を大事にすることと結婚という概念において、主に強調していることは、他のやり方では、耐えきれないほどの「自分は一人ぼっち」という感じから逃げる道を見つけることです。「人を大事にする」ことが、「一人ぼっち」からの逃げ場所だと気付いたんですね。世間に抵抗する2人の同盟関係を作るんですね。2人だけの自己中心が、人を大事にすることと人と親しくすることだと、思い違いをしちゃうんですね。

 

 

 

 

 フロムも鋭い!

 ズバッとですね。

 人を大事にするのは、「一人ぼっち」孤独が嫌だから。個人主義の欧米人でさえこうなんですからね。同調主義の日本人はなおさらですね。

 日本で、組織が神のようになり、それが「偶像崇拝」になるのは、フロムのご指摘通り、「一人ぼっち」孤独が嫌だから。ですから、自分が得している間だけ、組織を「神」のように崇めるんですね。組織がすることが、譬え「眉を顰める」ことであっても、「組織がすることは仕方がない」、となるんですね。

 私どもが必要なのは、「人を大事にする」ということが、組織内部に閉じるのではなくて、組織の「外」に開かれることでしょう。

 

 

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頭と心は、良い対人関係の中で育つ

2014-11-27 06:24:58 | アイデンティティの根源

 

 エリクソンのエピジェネティックな見方は、インドの4住期の見方と重なるところがあるのは、人の人生の巡り合わせに共通点があるから。

 p225第4パラグラフ。

 

 

 

 

 

 (エピジェネティックな見方は、インドの4住期の見方と重なるところがあるのは)不思議でも何でもありません。というのも、1つの発達の舞台の潜在可能性を、一人の人が実現できるような、適切な対人関係と、頭と心は一緒に発達するからです。頭と心が良い人間関係と共に発達することから、道徳的に言ったら、世間に言えないようなことをしでかした後であることも多いのですが、若者は最高の正義という誰にでも分かる原理をイメージできるようになるんですね。青年が理解しだすことは、時間の流れ、一貫した形で将来を見通すこと、いろんな考えを理解し、いろんな理想の良しあしを見極めること、つまりは、価値としての位置を理解することです。それは、青年期以前の子どもの頭では、出来ない話です。

 

 

 

 

 

 これは自分の頭で考える、という基本ができている、という前提にあります。すると青年期になれば、理想の価値が分かるようになる。でも本当にその理想の価値が分かる、と言えるのは、あくまで、その理想を生きてみる、ということが大事ですね。つまりね、「理想を信頼して、それに賭けてみる」、ということ。

 加藤周一さんが言うように、ほとんどの日本人にとっては、自分が得をするときだけ信じることが、「信じること」。ですから、「理想を信頼して、それに賭けてみる」、という態度の人は、絶滅危惧種ですね、日本では。

 でもね、内村鑑三の番組の再放送を求める声が少なくない 今。

  http://www4.nhk.or.jp/kokoro/5/ 

 「理想を信頼して、それに賭けてみる」、が求められている時代でもある訳ですよね。

 あなたはどうします?

 

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