エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

人の話を聴けないだけでなく、自分の意見だけを押し付ける人たち

2014-11-17 13:29:42 | エリクソンの発達臨床心理

 

 今日は顔シリーズにしてみました。宇沢弘文教授、アリストテレス、そして、わが安倍晋三首相です。この際ですから、「2人は哲学者で、1人はバカ」などとは申しません(実際は言ってる smile)。

 昨日沖縄県知事選で、翁長雄志さん(無所属・新)が当選しました。36万820票の得票で、次点の現職、仲井真弘多さん(無所属・現)が26万1076票ですから、翁長雄志さんの大勝、といえます。これは、わが安倍晋三政権が進める、普天間飛行場の辺野古移設に対してハッキリと「NO」を突きつけるものであることは、火を見るよりも明らかでしょう。

 http://www3.nhk.or.jp/news/html/20141117/t10013246631000.html

 この選挙結果を受けて、わが安倍晋三政権の反応はどうか?

 自民党・茂木選対委員長は、「埋め立てについては、すでに県の方の承認もおりておりまして、普天間の危険除去に向けて、きちんと政府として、政府・与党として、準備を進めてきたい」と聞く耳が全くありませんね。

http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/nnn?a=20141117-00000003-nnn-pol

わが安倍晋三政権は、一部富裕層、大会社、要するに自分たちに献金してくれる人たちの大便(代弁)はしても、沖縄の人たち、子どもたち、高齢者たち、女性たちの意見なんぞには、聴く耳を持たないのですね。「なんぞ」、などと言ってゴメンナサイね。わが安倍晋三政権の姿勢が、弱い立場の人たちに対する態度が、あまりにも「なんぞ」と言いたげなので、ついつい…。他者感覚のカケラもない。

 次の選挙で、わが安倍晋三政権には、私どもも沖縄に倣って、ハッキリ「No」と言ってやりましょう。

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道徳と倫理は、向きが違う?

2014-11-17 11:50:43 | エーリッヒ・フロムの真まこと(の行い)

 

 私どもは、道徳的・倫理的敏感さがある大人として、子どもの前に立ちたいものです。

 p222冒頭から。

 

 

 

 

 

 辞書は、あいまいさの避け処なのですが、この場合、道徳的敏感さと倫理的敏感さを区別できないだけなんですね。すなわち、道徳と倫理は、お互いに同義語であると同時に反意語として定義されます。言葉を変えますと、2つの言葉は同じなんですね。ただ違いもあります。その違いを私は強調したいんですね。というのも、何が合法で何が違法かを知っている人、あるいは、何が道徳的で、何が道徳に反するのかを知っている人は、それによって倫理的なことが分かっていることに、必ずしもならないのは、明らかでしょう。極端に道徳的な人たちは、倫理に反することもしでかしますし、倫理的な人が、道徳に反することに関わるのは、内的必然による悲劇、の場合でしょう。

 

 

 

 

 ここを読んだだけでは、道徳と倫理がどう違うのかは、まだよく分かりませんね。でもね、どうやら、この2つは、同じことであるようで、その向き、オリエンテーションが違うようですね。

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交換価値 < 人間らしさ

2014-11-17 06:17:17 | エーリッヒ・フロムの真まこと(の行い)

 

 上辺だけで人を大事にするフリをするのは、人を大事にすることに心を籠められないから。それは本当に自分が大事にされたことがないから。

 p77の第2パラグラフ。

 

 

 

 

 

 資本主義社会は、一方では政治的自由の原理に基づいていますが、他方では、あらゆる経済的な関係の調整役、したがって、あらゆる対人関係の調整役でもある市場原理にも、基づいています。商品市場が、商品がやり取りされる条件を決定しますし、労働市場が、労働力の需給を調整します。役立つモノでも、役立つ1人力や技術でも、商品になってしまいます。この商品は、力づくでもなく、詐欺を働かずとも、市場の条件下で取引ができます。靴は、役立ちますし、必要とされますが、市場で求められなければ、経済価値(交換価値)は全くありません。人間の力でも技術でも、現実の市場の条件下でニーズがなければ、交換価値は全くありません。資本家は労働力を買うことができますし、投資家の利益のために労働者に働くように命じることもできます。労働者は、餓死したくなけりゃぁ、市場の条件下で労働力を資本家に売らなくちゃぁ、なりませんね。経済構造は価値のヒエラルキーに反映されます。資本家は労働者に命令します。大量に集めたものなら、死んだものでも、労働者や人間の力や生きている者よりも、価値がある、という訳です。

 

 

 

 

 

 資本主義といえば、何でもかんでも、市場原理でやろうとすると、人間らしい暮らしが壊されます。「なんでも鑑定団」のように、なんでもお金に換算しちゃうと、味気ないでしょ。

 先ごろ亡くなられた宇沢弘文教授がおっしゃるように、人間が市場で取引できるのは、ごく一部。人間にとって最も大事なことは、市場では取引ができません。その最たるものが、赤ちゃんの世話でしょうね。赤ちゃんの世話は、母親の献身なしには成り立ちませんが、ここに市場原理を持ってくれば、赤ちゃんの世話ほど、不合理なことはありません。1円の得にもなりませんからね。

 市場原理が通用しない、聖なる領域、教育や医療、福祉は、市場原理を超えて、人間の尊厳と人間らしさという観点が物を言う領域です。

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