エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

基礎と臨床、2つの視点

2014-11-02 14:43:47 | エリクソンの発達臨床心理

 

 宇沢弘文教授がなくなりました。86才。「行動する経済学者」と言われていたそうです。いくつかの番組で、その人と業績が紹介されました。その一つが先日の「クロースアップ現代」でしたね。

 「経済は、単に富を求めるものではない」

 「人間らしく生きていくことが可能になる制度を考えていくのが、我々経済学者の役割でね」

 わが安倍晋三首相や、それを支持する経済人、カジノを日本でも遣ろう、と言う野蛮な人間、それにシッポを振る御用学者 竹中何某らに聞いてもらいたいと思います。

 この番組の中で、解説者として登場した内橋克人さんは、「基礎と臨床、現実と原理を往復して、その中から人間らしい暮らしができるように、経済の面からできることを追求した人」だと宇沢教授をと評します。いつも、政策で虐げられた弱者の立場、現場を大事にしながら、それを原理から説き起こした。その間の往復運動から、人間らしい経済を探究した。

 この2つの視点は、内村鑑三が言った、真理の楕円形、の話に通じるものですね。また、宇沢経済学は、丸山眞男教授が言う「他者感覚」に優れた経済学だと言えるでしょう。

 

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親替え=悪い良心→良い良心

2014-11-02 11:59:59 | アイデンティティの根源

 

 昨日のところ、苦難の神義論。東日本大震災を経験したものには、傾聴に値するところじゃぁ、ないですか? 1000年に1回、と言われる大災害も、慈しみ深い存在の大いなる計画の一部になりうる、と言いますからね。それは「闇の中に光」が見つかることに通じるはずですよね。

 p360下から3行目途中から。

 

 

 

 

 

しかし、一番古い印の中で、この律法を恐怖に基づける傾向は、親が声や身振りで道徳的に脅かす姿を、幼い子どもが心の中に取り入れる、もう1つの印として見られるに違いありませんね。この傾向は、フロイトが超自我と呼んだものなんですけれども、それは、「≪私≫という感じ」に対して、「ああしろ」、「これはダメ」とエバる、心の声なんですね。この超自我の働きは、聖句にたくさん出てくるんですが、一神教の世界秩序に「投影」されがちです。まさにここなんですね。将来の世界のイメージで、精神分析がもたらしてくれたいろんな洞察を無視することができるイメージなど1つもない、ってことが明らかになります。その洞察とは、超自我が心の中で専制君主になっていることが、心の病気の原因だ、と気づくのを助けてくれる、そんな洞察なんですよね。その洞察は、人を殺したい、と思うほど憎む憎しみの源になるだげゃぁなくて、死ぬより他ない、と思い詰めるほどの自己嫌悪の源にもなっちゃう無意識にある源を、ある程度癒していくためなんですね。

 

 

 

 

 この他罰的・自罰的な、「悪い良心」が、あらゆる心の病の源です。ですから、あらゆる心理療法の基本は、この「悪い良心」を、自他に対して寛容な「良い良心」に変えるところにある、と言っても過言じゃぁ、ない。

 この良心が、通常、自分では手に負えない、自分ではコントロールすることができないのは、その良心の成り立ちが、無意識裡にできちゃっているからなんですね。良心が、無意識裡にできるのは、それがトイレット・トレーニングが始まる1才半~3才にその元型ができるからなんです。1才半~3才の記憶がある人って、あんまりいないでしょ。その時にできるから、その時に出きる良心は、「良い」ものでも、「悪い」ものでも、意識ではコントロールできないんです。悪くすると、その「悪い良心」が他者に向けば、人を傷つけ、殺す場合も出てきますよね。自分に向けば、自分の髪の毛を抜いたり、手首を切ったり、自殺したりする場合も出てきますでしょ。コントロールできないからです。お酒や薬やセックスや買い物を対象とする依存症と、同じ心の傾きです。止められない…。

 心理療法では、セラピストが「親代わり」となり、「悪い良心」を、寛容で鷹揚な、自分に対しても、他者に対しても優しい「良い良心」に変えていくんですね。これが親替えです。

 

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特定の価値を選び、その価値のためには損も覚悟

2014-11-02 06:29:38 | エーリッヒ・フロムの真まこと(の行い)

 

 人間相手の仕事には、信頼がなくてはなりませんよね。

 p116下から5行目から。

 

 

 

 

 

 信頼するためには勇気、すなわち、自分が損をする覚悟、痛みと失望をさえ受け入れる心構えが必要です。安心と安全を、第一の生存条件としているようでは、信頼することなどできません。守ってくれるものの中に自分を閉ざしている人なら誰でも、安全地帯と財産が自分の守るすべになっているところでは、囚人も同然です。人を大事にし、人から大事にもされるためには、勇気が必要です。その勇気とは、特定の価値を究極的な価値と認める勇気です。それと同時に、思い切ってその価値に自分を委ね、その価値にすべてを賭けてみる勇気でもあります。

 

 

 

 自分を信頼し、他者を信頼するためにも、人を大事にし、人から大事にされるためにも、勇気が必要です。その勇気は特定の価値を認める勇気であると同時に、本気で、損も覚悟して、その価値に賭けてみることです。

 

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