昨日のところ、苦難の神義論。東日本大震災を経験したものには、傾聴に値するところじゃぁ、ないですか? 1000年に1回、と言われる大災害も、慈しみ深い存在の大いなる計画の一部になりうる、と言いますからね。それは「闇の中に光」が見つかることに通じるはずですよね。
p360下から3行目途中から。
しかし、一番古い印の中で、この律法を恐怖に基づける傾向は、親が声や身振りで道徳的に脅かす姿を、幼い子どもが心の中に取り入れる、もう1つの印として見られるに違いありませんね。この傾向は、フロイトが超自我と呼んだものなんですけれども、それは、「≪私≫という感じ」に対して、「ああしろ」、「これはダメ」とエバる、心の声なんですね。この超自我の働きは、聖句にたくさん出てくるんですが、一神教の世界秩序に「投影」されがちです。まさにここなんですね。将来の世界のイメージで、精神分析がもたらしてくれたいろんな洞察を無視することができるイメージなど1つもない、ってことが明らかになります。その洞察とは、超自我が心の中で専制君主になっていることが、心の病気の原因だ、と気づくのを助けてくれる、そんな洞察なんですよね。その洞察は、人を殺したい、と思うほど憎む憎しみの源になるだげゃぁなくて、死ぬより他ない、と思い詰めるほどの自己嫌悪の源にもなっちゃう無意識にある源を、ある程度癒していくためなんですね。
この他罰的・自罰的な、「悪い良心」が、あらゆる心の病の源です。ですから、あらゆる心理療法の基本は、この「悪い良心」を、自他に対して寛容な「良い良心」に変えるところにある、と言っても過言じゃぁ、ない。
この良心が、通常、自分では手に負えない、自分ではコントロールすることができないのは、その良心の成り立ちが、無意識裡にできちゃっているからなんですね。良心が、無意識裡にできるのは、それがトイレット・トレーニングが始まる1才半~3才にその元型ができるからなんです。1才半~3才の記憶がある人って、あんまりいないでしょ。その時にできるから、その時に出きる良心は、「良い」ものでも、「悪い」ものでも、意識ではコントロールできないんです。悪くすると、その「悪い良心」が他者に向けば、人を傷つけ、殺す場合も出てきますよね。自分に向けば、自分の髪の毛を抜いたり、手首を切ったり、自殺したりする場合も出てきますでしょ。コントロールできないからです。お酒や薬やセックスや買い物を対象とする依存症と、同じ心の傾きです。止められない…。
心理療法では、セラピストが「親代わり」となり、「悪い良心」を、寛容で鷹揚な、自分に対しても、他者に対しても優しい「良い良心」に変えていくんですね。これが親替えです。