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エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

神の霊風と創造

2014-11-23 14:42:44 | エリクソンの発達臨床心理

 

 創造には、二つの見方があるそうですね。1つは「無からの創造」。文字通り神業でしょう。何もないところから、何かが生まれることですからね。人間には不可能です。

 もう1つは、混沌から秩序が生まれること。

 創造に、2つの意味があることを教えてくれたのは、関根正雄先生(岩波文庫「旧約聖書 創世記』注釈p157 参照してね)。先生の翻訳の創世記第1章第1節~3節は

「始めに神が天地を創造された。地は混沌としていた。暗黒(やみ)が原始の海の表面にあり、神の霊風が大水の表面に吹きまくっていたが、神が『光あれ』と言われると、光が出来た」

 混沌から秩序が生まれる時に、「神の霊風」が吹くと言います。その風は大風。台風みたいなものなのかしらね。混沌は闇(暗黒)でもありますね。大風のおかげでしょうか? その混沌の中の秩序が生まれます。秩序は光でもあります。

 これは心理療法でやってることと全く同じですね。無意識が混沌としている感じで、また、「闇」と感じやすい。ですから、無意識の暴力に苛まれると、その「闇」に圧倒されて、ガッカリしやすい。でもね、その無意識を「共に見る」人がいると、不思議なのことですが、その「共に見る」人が心理学の知識がない人であっても、そこに秩序が生まれてきます。そして、それは「光」と感じます。「光」を感じるので、「闇」に思えたところが、言葉が生まれるくらい「ハッキリと見えて」きて、しかも、「温もり」を感じます。

 闇の中に光を見つけ出す心理療法。それは、文字通り創造! ビックリしますね。

 

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踊りと巻き上げに注意!

2014-11-23 12:13:57 | エーリッヒ・フロムの真まこと(の行い)

 

 感覚を研ぎ澄ました先には、≪最深欲求≫が待ってくれています。

 p80の下から13行目から。

 

 

 

 

 

 現代人は、実際ハックスリーが『素晴らしい新世界』で描いたイメージに近づきますね。よく食べ、良いベベ着て、性的にも満足しているのに、自分はないわ、仲間とは上辺の付き合いしかないわ。それは、ハックスリーが「個人が何かを感じると、その社会は倒れる」、「今日楽しんだことを明日まで引き延ばすな」、あるいは、最後を飾る言葉「いまは、みんな幸せ」という簡潔に定式化したスローガンで導かれています。人の幸せは、いまや、「愉しみを持つ」ということになります。愉しみを持つとは、消費をすることで、すなわち、消費財、娯楽施設、食べ物、飲み物、タバコ、人々、講義、本に映画を「取り込む」事で満足することなんですね。すべては消費され、飲み込まれます。

 

 

 

 

 消費社会と言えば聞こえはいい。中身は踊らされ、お金と時間を巻き上げられているのにね。そのことに気づかない。この場合も「病識」がない。自分を感じることがないので、感覚が鈍感になっちってる証拠です。鈍感だから、消費という強い刺激を求めることになっちゃう。それはお酒や薬物、ドラックやセックスと一緒ですね。

 

 

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早すぎる道徳は、禁物

2014-11-23 10:00:00 | アイデンティティの根源

 

 上辺だけが優しい大人が、「正しいことを押し付ける」事は誠に厄介。しかし、子どもは、傷つきのある子どもほど、その大人のウソとゴマカシにすぐに気づきます。

 p224の改行後。

 

 

 

 

 

 この(黄金律が、敵の攻撃から守ってくれるだけじゃなくて、上辺は親切そうに見える人が「正しいことを押し付ける」ことからも守ってくれる、という)見方は、歴史の証明にもかかわらず、あまりに「臨床的」になり過ぎるといけませんから、私どもは進歩主義者たちが書いたものを見てみることにしましょう。その進歩主義者たちは、このに三十年の間に、超自我を進化した事実として、進化した危険として理解する精神分析に加わってきました。「発達の」原理は、このように、「進化の」原理と結びついています。ウォディントンは、「超自我の厳格さは人類にとって特殊になりすぎているかもしれない。それは後期の恐竜の、盛りすぎたウロコのようなものだ」とまで言うほどです。あまり大げさにならない比較において、ウォディントンは、超自我をなぞらえて、「一匹の宿主の動物でしか生きられないように適応した寄生生物の難しい適応だ」と言います。ウォディントンの本、『倫理的な動物』を推薦する際に、認めなくてはならないのは、ウォディントンの用語法は、私の用語法とは一致しません。ウォディントンは子どもの頃に道徳性に目覚めさせることは、「倫理的に振る舞うこと」に対する心構えと呼びました。私でしたら、それを「道徳的の振る舞うこと」と呼ぶのが良いと思います。多くの動物学者がしているように、ウォディントンは、幼子と幼い動物の類似について縷々述べるのですが、私は、幼い動物は、大人になる手前の、青年期を含む人間と比較しなくちゃあいけない、と思います。

 

 

 

 

 ウォディントンは、幼子が道徳性に目覚めることは良いことだ、と考えているのでしょう。だけれど、エリクソンは、あまりにも早く道徳性に目覚めることの害について、具体的事実をいろいろ知っていたはずです。私でさえ、早熟の道徳性が有害すぎることで、心痛めているのですから、エリクソンは、はるかにそのゾッとする事実を知っていたはずです。

 

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