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エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

小さいことを大事に

2014-11-30 13:58:48 | エリクソンの発達臨床心理

 

 「小さいこと」、これに対する態度で、だいたい人となりが分かります。

 私が好きな人は、「小さいこと」を大事にする人。「小さいこと」に中には、いろんなものが入ります。たとえば次のよう存在は、「小さいこと」だと思われます。後片付け、トイレ掃除、道端のゴミ拾い、弱い立場の人、子どもです。こういう「小さいこと」を大事にする人が私は大好きです。私自身もそうありたいと日々願っています。

 私が「嫌だな」と感じる人は、「小さいこと」を蔑ろにする人。「小さいこと」を大事にしても、あんまり大きな評価をされないのが世間の常だからでしょうか? やりたがらない人が少なくないでしょ。使ったものは人に片付けさせ、トイレ掃除や道端のゴミも人任せ。弱い立場よりも、強い立場の人に擦り寄り、「大事に」し、子どもよりも、権力にペコペコ。「小さいこと」を蔑ろにする人は、概ねそんな感じです。

 何故なんでしよう?

 それは自分が得することを考えるのでしょう。あるいは、自分が損をするのが嫌なんでしょうね。そんな人は、自分との対話を怠りがちですね。私はそんな人には、岡辺伊都子さんの次の詩を送りたいですね。

 

「うったらあかん」

友達を      売ったらあかん

こどもらを    売ったらあかん

まごころを    売ったらあかん

本心を      売ったらあかん

情愛を      売ったらあかん

信仰を      売ったらあかん

教育を      売ったらあかん

学問を      売ったらあかん

秘密を      売ったらあかん

こころざしを   売ったらあかん

大自然を     売ったらあかん

いのちを     売ったらあかん

自分を      売ったらあかん

自分を      売ったらあかん

 

 

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人を大事にすること

2014-11-30 11:17:25 | エーリッヒ・フロムの真まこと(の行い)

 

 技術そのものを目的化してはいけないのですね。

 p82第2パラグラフ。

 

 

 

 人を大事にすることが、性的な満足を上手く得られた結果などではなくて、性的な満足は、たとえいわゆる性的な技術を知っていたとしても、人を大事にすることの結果です。毎日の観察から離れて、このテーゼは証明ることが必要ならば、そのような照明は、精神分析のデータのごまんとあります。一番よくある性的課題を研究することは、女性では不感症、男性では、大なり小なり、インポテンツの形になりますが、正しいセックスのやり方を知らないことになるわけではありませんで、むしろ、相手を大事にすることが難しくなる、セックスがあまりできないことにこそあります。異性を恐れたり憎んだりするとは、人が自分を相手に完全に委ねることができずがにすることの根底にありますし、また、自発的に動けないことの根底をなしたり、セックスの相手を、直接的に、また、身体と身体を触れ合う中で、信頼することができないことの根底にあります。もし、セックスがありまできない人が、恐怖や憎悪があっても、りり人を大事にするができるようになれば、その人が男であろうと女であろうと、性的な課題は解決します。それは、たとえ、せっかるのやり方について何にも分からずとも、なんですね。

 

 

 

 

 セックスは相手を大事に思う結果であって、その逆じゃあない。この至極当たり前のことも、技術主義だと分からなくなります。

 

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若者の「本物」の倫理と現実

2014-11-30 05:29:42 | アイデンティティの根源

 

 道徳性には、ウソがつきもの。そのウソには、また、イジメがつきもの。

 p226の第三パラグラフ。

 

 

 

 

 「真に」倫理的な感じは、若者には、道徳的な抑圧や理想的なヴィジョンを含み、かつ、それを超越します。その感じは、このような親しい関係や仕事の付き合いに具体的に関わることにこだわることでもあります。人はそのことによって、人生を実もあり花もあるものにしたいと願うのですね。しかし、新米の大人は危険も孕んでいます。この危険が、道徳家の「正しいことを押し付ける姿勢」を増し加えますし、ある価値に熱狂して他者を排除することも加えます。さらには、自分の地上の要求を正当化し、他と区別し、しかも、組織への帰属意識の中に永遠の安心感を得る縄張り意識が増し加得ることになります。このようにして、黄金律が、あらゆる種族と民族、あらゆるカーストと階級、あらゆる道徳と価値を、最もうまくいった場合、その全てを包み込むような黄金律が、一貫して他を排除するものとなります。しかも、その排除は、誇りを持ち、迷信を信じるように、悪意を抱いて、「外」の人たちと助け合う倫理的な立場を否定するんですね。

 

 

 

 

 いかに若者が危ういか分かりますよね。本来は、人と分かち合うはずの黄金律でさえ、排除の論理にすり替わるかもしれないのですね。

 私どもは、いつでも意識したいことがありますね。それは「一つの人類」「人間皆兄弟」ということです。その原点に立ち返って、黄金律も、政治家のやることも、視ていくことが大事でしょう。

 

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