エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

無思考の≪悪の凡庸さ≫と≪最深欲求≫

2014-11-21 13:35:57 | エーリッヒ・フロムの真まこと(の行い)

 

 自由はある意味厄介です。自らの頭で考え、違う意見の人と調整し、その違い中でアクションしなくちゃぁ、なりませんでしょ。ですから、現代のように巨大なシステムの下で生きなくてもならないと、自由から逃走した方が楽だ、となりやすい。しかし、その結果は自分で自分の首を絞めることになります。

 p79下から2行目から。

 

 

 

 

 

 その結果はどうか? 現代人は自分自身とも、仲間とも、自然とも対話がありません。現代人は商品化していますし、自分の人生の力を投資として経験しています。その投資のよって、現代人は既存の市場の条件下で最大の利益を得ようとします。人間関係は本質的に、ロボットの関係になります。それぞれの人は自分の安全を群れに加わることで確保しようとしますし、群れと考えや感情や行動で違いが出ないようにします。誰もが、なるだけみんなと同じになろうとする一方で、誰もが一人ぼっちのままで、落ち着かない気持ち、不安な気持ち、「自分が悪い」気持ちにさいなまれていますし、こういった気持ちが、人がバラバラであることが克服できずにいる間は、結果として生じます。私どもの文明には、たくさんの一時しのぎのゴマカシがあり、自分が一人ぼっちであることにわざわざ気付かないようにしているのですね。まずは、官僚化され、機械化された仕事でして、そのために、人々は超越と一致を求める最深欲求に気付くことができません。

 

 

 

 

 ここでも、フロムとエリクソンはシンクロしてますでしょ。しかも、フロムも≪最深欲求≫を話題にしますでしょ。≪最深欲求≫は、ユダヤ・キリスト教文化圏では、根源的ですからね。でも、これはユダヤ・キリスト教文化圏だけの問題じゃぁないことも確かでしょ。日本でも中国でも、アフリカや中南米でも、そこに住む誰もが、心の底の底に抱える願いでもあるんですね。

 現代は、その≪最深欲求≫に気付かぬままに生きることが多い。それはシステムの中で、自分の頭で考えることをやめにしている結果です。

 

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自分自身と対話しないのは、仕方ない?

2014-11-21 11:47:45 | アイデンティティの根源

 

 「正しいこと」を押し付ける人は悪い良心の人ですね。「心の病」の元凶です。

 p223の下から14行目途中から。

 

 

 

 

 

神経症の人や外では通用しない論理がまかり通る集団の病を治療する私どもが自問自答しなくちゃぁならないことがあります。それは、「自分が悪い」と感じすぎたり、「自分は恥だ」と感じすぎたりすることの元凶になったり、それが強調されたりするのは、親や社会が圧力を掛けたり、大事にされなくなるかもと恐れたり、打たれたり、みんなの前で恥をかかされたりするためなんですね。あるいは、自分自身と対話しない悪い癖があるためなんですね。自分自身と対話しないことが、人間の進歩的遺産の一部、ある程度は仕方がない一部になっちゃってるんですね。

 

 

 

 

 「自分が悪い」とか、「自分は値打ちがない」と感じるのは、自分自身と対話がないからなんですね。悪い良心の両親や教員に育てられた結果です。「正しいこと」を押し付けられるので、その子はやり取りよりも、奴隷のように、支配され、コントロールされ、従うことを強制されることになってしまうからなんですね。ですから、その子は、≪ありのままの自分≫を表に出すよりも、表に出さずに我慢することを強要されることになっちゃいますでしょ。 ≪ありのままの自分≫は、我慢されられたり、抑えつけられると、「≪ありのままの自分≫はガラクタ、ゴミだ」と感じるようになってしまいます。するとますます≪ありのままの自分≫を出せない、我慢する、という悪循環に嵌ります。

 それが進歩だとするなら、進歩しない方がましですね。

 

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「自分にうそのない充実した時間を過ごされてください」

2014-11-21 05:45:58 | エリクソンの発達臨床心理

 

 誰の言葉だと思いますか? 写真がすでに出ていますから、分かりますよね。これは、高倉健さんの遺作となった「あなたへ」のロケ地、小倉北区の映画館「小倉昭和館」の館主、樋口智巳さん(54)に、高倉健さんが送った言葉だそうですね。

http://www.nishinippon.co.jp/nnp/f_kitakyushu_keichiku/article/127933

 11月10日に亡くなった高倉健さんの追悼番組が、あちこちの局でやってますでしょ。私は今日のタイトルの言葉が心の残りましたね。この人も、自分と対話をしていたんだなぁ、とすぐに分かりましたね。

 もともと私はそれほど高倉さんの映画を見てません。任侠映画は好きじゃぁありませんしね。今まで見たのは「幸せの黄色いハンカチ」と「動乱」くらい。しかも、映画館ではなくて、テレビで見たものです。ですから、高倉健さんのことは、あまり知りませんでした。

 さっき見たクローズアップ現代では、「人を想うこと」が最も美しいこと、「感じること」が大事なこと、という信条を高倉健さんが大事にしていたことを強調していましたね。これも自己内対話、自分自身と向き合うことなしには、決してできません。それは孤独を、1人の孤独にしなかった、見事な生き方と不可分に結びついたものなんですね。それは「孤独の時間」に聞こえてくる≪自分の声≫を、映画を通してし表現する、ということと直結していたはずです。高倉健さんのことは皆目知らない私でも、心についてずっと感じ、考えて来た、1臨床心理学徒として、ビィビィッと感じてしまいます。

 イチローさん、本田圭佑さん、五嶋みどりさんに、それから今日の高倉健さん。まじめに「仕事」をしようと思えば、自ずから「自分自身と向かい合う」生き方・生涯を送ることができます。

 

  そして、私は思います。

 「是は誰にものこすことの出来る生涯ではないかと思います」と(鈴木範久『近代日本のバイブル 内村鑑三の『後世への最大遺物』はどのように読まれてきたか』p198)。

 

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