エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

国立市公民館の「図書室の集い」:わが安倍晋三首相は、駄々っ子以下

2014-11-05 13:46:46 | エリクソンの発達臨床心理

 

 私事にわたることで恐縮ですが、私は生まれも育ちも、東京都国立市谷保です。あの「野暮ったい」の語源になったのが、我が「谷保」であることは、私の “自慢” の種なんですね。

 この国立市公民館は、市内にある、極小さな公民館にすぎませんが、公民館の歴史の中で、それはそれは、光栄ある歴史を持っていることは、知る人ぞ知る、ものなんですね。それは、未来社から出ている『子どもを育て自分を育てる―国立市公民館「保育室だより」の実践 』などを参照していただければ、すぐに分かります。手前味噌ですけれども、良いものは良い。

 今日ご紹介するのは、ここで先ごろ開催された、「図書館の集い」、國分功一郎さんの「哲学で読み解く民主主義と立憲主義」です。朝日新聞デジタル版のWEB RONZA(http://webronza.asahi.com/culture/2014101700009.html

等をご参照していただければと思います。

 詳しい議論はそちらに譲りまして、わが安倍晋三首相はじめ、権力の座にある人たちが、いかに駄々っ子以下の存在なのかが、手に取るように分かります。私どもがこの権力に対して、どのような態度をとるべきなのか、その意思決定の上で、非常に参考になる、ほとんど基礎資料の一つになるものだろう、と私は考えます。

 ぜひご一読を!

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愛敵とは?

2014-11-05 11:01:11 | アイデンティティの根源

 

 

 「ガリラヤの言い伝えと≪私≫という感じ」もそろそろ佳境。

 p361第2パラグラフ。

 

 

 

 

 

 したがって、短い結語が、イエスが実践しお薦めした戦闘的非暴力の永遠の意味について述べましょう。拙著『ガンディーの真理』では、私がインドを訪れた時、(アーメダバードの)町で、あるいは、インドにおいてガンディーが関わった最初の非暴力の冒険に参加した生き残りの人々の間で、いかに私がお客としてされかを報告しました。この雰囲気のおかげで、私はこの非暴力の出来事を心理学的に学ぶことができました。するとすぐに、このインドの預言者が、南アフリカで、新しい非暴力の、政治経済的行動原理を確立する際、彼自身のもともとの宗教的要素と、イエスが言ったこととやったことを、どの程度意識的に結びつけたかがハッキリしてきました。ガンディー自身の葛藤は、ある種の西洋的な超自我との戦いを含みながら、彼の非暴力の原理は、彼の受難に対する心構えに加えて、これまでのところですでに申し上げて来たとおり、敢えて危険を冒すことを含んでいたのでした。それはすなわち、 「自分たちの中にある『最良のもの』を、『最悪の』(と思える)敵に対して、意識的に、しかも、決然として投影し、非暴力的にその敵に悦んで対面すること」です。

 

 

 

 

 エリクソンの面目躍如です。今回エリクソンが教えてくれた、非暴力の定義、すなわち、

「自分たちの中にある『最良のもの』を、『最悪の』(と思える)敵に対して、意識的に、しかも、決然として投影し、非暴力的にその敵に悦んで対面すること」

以上に優れたものは、私は寡聞にして知りません。

 私どもは、この原理に従って、日々生活してまいりたいですね。

 

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信頼と勇気の練習

2014-11-05 06:07:24 | エーリッヒ・フロムの真まこと(の行い)

 

 あらゆる創造的な活動は、信頼と言う基礎があって初めて可能になる。創造的な活動は、限りなくスピリチュアル。

 p117第4パラグラフ。

 

 

 

 

 

 信頼と勇気の練習は、日常の些細なことから始まりますね。はじめの一歩は、自分がいつどんな場合に信頼出来なくなるのかに気付くことですし、信頼できずにいることを隠すために、どんな言い訳をしているかをよくよく考えることですし、どういう場合にずるく立ち回り、その言い訳をしているのかをハッキリと認めることです。信頼を裏切ることならどんなことでも、いかに自分を弱めてしまうか、自分が弱くなれば弱くなるほどに、その弱さがいかに新たな裏切りをもたらすのか、などを理解することです。逆も真なりですね。そうすれば、「自分が大事にされてない、と意識的に心配してると、実際に、無意識裡ではあっても、人を大事にすることを恐れてしまう」ということが分かるでしょう。人を大事にするとは、何の保証もないところで相手に賭けることなんですね。あるいは、人を大事にするとは、自分たちが相手を大事にする思いがあれば、その大事にした相手の中に、また他の人を大事にする気持ちが芽生えるはずだという希望に完全に自分を委ねることでもあります。信頼の練習について、これ以上何か付け加えられる人がいますでしょうか? いいえ、そんなひとはいないでしょ。どなたか別の方なら、おっしゃるかもしれませんね。もしも、私が私人か伝道者ならば、もっということに挑戦してみるかもわかりません、と。しかし、実際には私は詩人でもなければ、伝道者でもありませんから、信頼の練習についてこれ以上のことは申しません。ただ、私が確信していることは、本当に信頼と勇気に関心がある人なら、どなたでも、信頼が持てるようになるはずだ、ということです。それは子どもが歩けるようになるのと同じです。

 

 

 

 

 信頼と勇気の練習は日々の生活の些細なことを吟味してみることから始まるようですね。確かに日々の些細なことを、信頼と勇気をもって実行できないで、非日常のデッカイことで、信頼と勇気を発揮することなど、夢のまた夢。信頼と勇気を持ちたいと願いながら、意識して暮らしていくことが大事。それを続けてりゃぁ、どなたでも信頼と勇気を持てるものなんですね。

 あーんしん!

 

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