エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

現代資本主義の特色 個人がなくなっちゃう

2014-11-18 14:24:02 | エーリッヒ・フロムの真まこと(の行い)

 

 道徳と、倫理は、似て非なるものらしい。向きが違うらしい。それってどういう意味?

 p78の第2パラグラフ。

 

 

 

 

 

 これは、資本主義の基本的構造でして、それは、資本主義が生まれた最初からそうでした。しかし、それは、いまだに現代の資本主義の特徴なのですが、しかし、そのたくさんの要素が変化してしまったがゆえに、現代資本主義は特別な性格を帯びると同時に、現代人は性格構造に深刻な影響を受けてきました。資本主義の発展の結果、資本の一極集中がますます増大しています。大企業はその規模を拡大し続け、小規模な企業は搾取されます。こういった大企業に投資する資本家は、大企業を経営する働きからだんだん離れています。何千何百の投資家たちがその大企業を「所有」しています。経営陣の官僚が、高いサラリーを得てはいても、その企業を所有せぬまま、企業経営をしている、という訳です。この官僚制は、その企業の拡大や自分自身の権勢ほど、最大の利益を得ることに関心がありません。資本が集中し、強力な経営陣の官僚政治が登場したことは、労働運動の発展とパラレルです。労働者が連帯するにつれて、個人の労働者は、労働市場で自分のために良い買い物ができなくなりました。1人の労働者は、大きな労働組合に組織され、強力な官僚政治に導かれています。その官僚政治がその労働者の代わりに巨人に向かい合います。主導権は、良きにつけ悪しきにつけ、資本の分野でも労働の分野でも、個人から官僚政治へと、移っています。ますます多くの人が独立的であることを止めて、巨大な経済帝国の経営陣にますます依存することになります。

 

 

 

 現代資本主義の特色は、その官僚政治でしょう。でもこれは社会主義でも一緒です。資本主義の特色ではなくて、現代の特色だからです。

 その官僚政治は、システムの巨大化です。「個人がほとんどゼロ」だと言ったのは、かの加藤周一さんです。じゃぁ、「仕方がない」と言って諦めなくちゃぁ、ならないのか?

 この問いの答えは、皆さんが出してくださいね。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

怖いからするのか? 正しいからしたいのか?

2014-11-18 12:39:12 | アイデンティティの根源

 

 道徳と、倫理は、似て非なるものらしい。向きが違うらしい。それってどういう意味?

 p222の第2パラグラフ。

 

 

 

 

 

 1つ提案したいのですが、それは、道徳的な行動規範は、「脅し」を先回りして恐れることとに基づいている、と考えたいということです。その「脅し」とは、見捨てられること、裁かれること、さらし者にされること、あるいは、良心の呵責で、罪深いと感じたり、恥を感じたり、相手にされないと感じたりすることかもしれません。いずれの場合も、規範に従う判断基準は、さほどハッキリしないかもわかりません。反対に、倫理的規範は、十二分に理性的に納得したうえで求めた理想、定式化された善、完成の定義、自己実現を約束するいくつかの約束に対して納得している理想に基づいています。この違いは既存の定義と一致しないかもしれませんが、人間の発達を観察することによって具体化したものと考えたいです。そこで、最初の提案です。道徳的な感じと倫理的な感じは、心理的な動きにおいて違いがあります。というのも、道徳的な感じは早めに、より未熟な段階で発達するからです。これは、道徳的な感じが、いわば飛び級ができるということではありません。逆に、大人の心にある年輪は、子どもが成長するに当たって、一歩ずつ発達したものですし、自分の文化の中で、善い行いだとされることを理解する際に、大事な歩みのすべては、よきにつけあしきにつけ、個人が成熟する際の別々の発達の舞台にあります。しかし、その歩みすべては、お互いに必要なんですね。

 

 

 

 

 道徳は、悪いことをされたら嫌だ、怖いねという思いから発達していると、フロムは言います。逆に倫理は、それぞれの人が納得した理想に基づいているわけですね。2つは、オリエンテーションが真逆だと言えますでしょう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ギャンブル依存症と「ウソのない生活」

2014-11-18 06:34:44 | エリクソンの発達臨床心理

 

 ギャンブル依存症。日本には536万人以上の患者がいるそうです。「クローズアップ現代」でやっていましたね。

http://www.nhk.or.jp/gendai/kiroku/detail_3582.html

 男性のギャンブル依存症患者は438万人、成人男性だと12人に1人がギャンブル依存症だと言います。ビックリしちゃいますね。でもね、こんだけたくさんの人がギャンブル依存症になってるのに、わが安倍晋三政権は、「成長戦略」の一環で、カジノをやろうってんですからね。人がいくら苦しんでも、わが安倍晋三政権の人たちはヘッチャラなんですね。それじゃなくても、ギャンブルは、行政自身がやってる、競馬・競輪・競艇・オートレースの公営ギャンブルと、パチンコですよね。政治がギャンブル依存症という「立派な病人」を作りだしてるなんて、愚の骨頂でしょ。

 ギャンブル依存症の診断基準の一つがウソ。ウソを言って金を借りたり、家の中の耐久消費財などを金に換えたり。ある調査では、平均1,000万円以上のお金をギャンブルにつぎ込んでいると言います。家族もいい迷惑でしょ。ウソだらけの生活です。

 「ウソだらけ」の点が、わが安倍晋三政権と共通するのかもしれませんね。わが安倍晋三政権は「ウソだらけ」だから、「ウソだらけ」の日々を過ごすギャンブル依存症の仲間を増やしたいのかもしれませんね。

 でも、ギャンブル依存症は、脳が変化してしまう病気だそうです。ギャンブル依存症患者を長年治療している、作家で精神科医の帚木蓬生(ははきぎ・ほうせい)さん(本名は、森山 成彬(もりやま なりあきら))。「タクアンになったものを、大根に戻せない」といいます。ギャンブルに特異的に反応するようになり、ギャンブルの刺激を求めざるを得なくなった、ギャンブル依存症の脳は、元通りになかなかなりません。それはアルコール依存症や薬物依存症と、同じで、その治療は一生モノで、非常に困難です。

 ギャンブル依存症の治療は、「ウソのない生活」の安心感を実感してもらうことだと、クローズアップ現代で解説してくださった、田辺 等 さん (北海道立精神保健福祉センター所長)は仰せです。ですから、家族も借金の肩代わりなど、「目先の解決」を止めて、「助けない」選択を家族にしてもらうことが必要です。「助けない」ことが「ウソのない生活」と、その良さに気付く「内省」という「真の手助け」に結びつく、というのですから、面白いですね。

 大事なのは、「ウソのない生活」の安心感に、気付く内省。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする