黄金律も、矛盾のあるところに一致をもたらす不思議な力があるものですね。
p220最後の行から。
自分の利益と他者の利益を同じだと見なすために、黄金律は次のような方法をとっています。たとえば「あなたが人からして欲しくないと思うことを、人にするな」と蛍光したり、「あなたが人からして欲しいと思うことを、人にして差し上げなさい」と熱心に勧めたり。心理学的な願いにとって、ある黄金律は、「自己中心的な用心深さ」を一番少なくすることに頼る場合もあれば、別の黄金律は、「利他的な共感」を最大にすることに頼っています。「自分がされたら嫌なことは、ひとにやるな」という公式は、小さな子どもが、つねり返されたくないからつねるのを思いとどまる心理レベルに勝ることに前提にしていません。もっと成熟した気付きは、「自分のために大事にしていることを兄弟のために大事にするまで、だけも信じるものではない」という言葉にあるように思われます。しかし、黄金律のすべての中で、ウパニシャッドの「全てを自分の中に見い出す者は、全てに自分自身を見い出す」や、キリスト教の「自分自身を大事にするよう、身近な人を大事にしなさい」ということほど無条件に、私どもと約束してくれるものはありません。これらは真実に人を大事にする気持ちと「本当の自分」に真実に気付かされることをも示しています。もちろん、フロイトは、このキリスト教の格言を上手に幻想から区別していますし、この格言の真実を広めることや、フロイトの方法が実際に依って立つことに皮肉を言うことを否定するのです。
黄金律は人の真実を示しているのです。不思議ですね。バラバラに見える人と人は、眼に見えないレベルで繋がっているんですね。それを黄金律ははっきりと示してくれます。
フロイトもその事実に気付いた1人。その契機がフロイトの場合、無意識だったんですね。