エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

弱さの強さ ルターの場合

2015-05-03 12:30:38 | アイデンティティの根源

 

 

 ルターの文体は新しいものでした。

 Young Man Luther 『青年ルター』p197の第2パラグラフの8行目途中から。

 

 

 

 

 

しかし、ルターは、ゾッとする程! 「本気の」人でした。ルターがエラスムスに慕われなかったのは、説教をするものが寓話や譬えのために使ったあらゆる動物の中で、メスブタが一番のお気に入りだったからです。間違いなく、ルターの彩り豊かな土臭さは、後年、単なる「豚の絵」になったことでした。不安神経症によって、ルターの説教が歪められました。説教の最中やその前後に、めまいに襲われるときがありました。普通ドイツ語のめまいを意味する言葉は、Schwindelと言いますが、2つの大事な意味があり、ペテン師の詐欺的行為にも使われました。ルターに典型的な悪夢とは、集会(礼拝)に出ようとしているのに、神様がアイデアを送ってくれない、というものでした。

 

 

 

 

 説教においては強気に見えるルターも、実のところ、弱さがこれだけあったんですね。ルターは自分の弱さを隠したんでしょうか? 強がっていたんでしょうか? そうではないと私は考えますね。パウロも言ってますからね。「弱い時にこそ強い」と。豚の絵は、気取りがない、とも取れますが、悪趣味かもしれません。「洗練な」人は好まないでしょ。しかし、病があることを「糧」にすることは、むしろ、強さになる場合があります。ルターもその類の人だったのでしょう。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

心の時限爆弾

2015-05-03 06:33:44 | エリクソンの発達臨床心理

 

 思わせぶりなタイトルでゴメンナサイ。

 根源的信頼感と根源的不信感の話をこのブログで書いてますでしょ。今日もその続きを書こうという訳なんですね。

 愛着障害は、ジョン・ボウルビーが唱えた愛着、母子の見えない絆の視点から名付けなれた名前です。エリック・エリクソンが唱えた根源的信頼感の視点から名付けるとすれば、「根源的不信感障害」なんですね。すなわち、自分のことは、価値がないと感じていると同時に、人も当てにならないと感じている、心の根っこにある傾きなんですね。いろいろなご意見があるでしょうけれども、その中心になる感情は、「激しい怒り」、エリクソンがよく使う言葉で申し上げれば、rageです。これは単なる「怒り」ではなくて、「激しい怒り」「激怒」です。漫画であらわすとすれば、頭から湯気が出てんでしょう。

 この「激しい怒り」こそが心の時限爆弾なんですね。必ず爆発するからです。時限爆弾なら、一回爆発したら、それでお終いでしょ。でもね、この「激しい怒り」は、繰り返し爆発するのが、その特徴の一つです。一日に何度も爆発することも、そう珍しいことじゃぁない。

 この「激しい怒り」は、コントロールするのがほぼできませんね。「ほぼできない」と申し上げるのは、コントロールすることができる場合もあるけれども、それはまれだ、ということです。ましてや、コントロールする術を得る人は、さらにまれだ、ということです。別に、現在進行形の連続テレビ小説を宣伝しようと言うんじゃないんですね。

 ですから、そういう人の特色は、もちろん、その「激しい怒り」が爆発して反応することです。いろんなことで「激しい怒り」が刺激されますでしょ。その度に爆発するんですね。「激しい怒り」だからって、怒鳴り散らしたり、大声を上げたりするんじゃぁない、そればかりが、「激しい怒り」の反応じゃぁないんですね。

 私に言わせれば、怒鳴り散らすことよりも、「素直になれない」ことの方がはるかによくあるケースですね。ですから、自ずから「ウソとゴマカシ」が多くなりますでしょ。そうすると、顔つき、目つきまで変わってくんですからね。ことばではピッタリと表現することはできません。出来るだけやってみますと、そういう人の眼は、必ず曇っています。いやほんとは「雨」なんでしょうね。顔つきも、どことなく暗い。笑っていても、眼が笑ってない。

 そういう「激しい怒り」の人はね、ずくに反応するんですね。ですから、すぐにそれと分かります。黙ってませんからね。それはね、立ち返る所を失っているからなんですね。ティグ・ナット・ハーンさんなら、「自分の息に戻りなさい」と言うでしょ。でも、「激しい怒り」の人にそんなことを言っただけでは、ウントモスントモない、ピンとこない。聖書でも、同じです。「立ち返って静かにしていれば、救われる」(イザヤ書第三十章15節)ですからね。自分の息、ルアーハ、プシケーに戻るんですね。でも、「安らかに信頼」(イザヤ書第三十章15節)している相手がないんですね。迷子のコマッタちゃん。でも、自分は〇〇教の信者だと思ってるんですからね。

 でも、「激しい怒り」の人は、カチンとくれば、自分の息がすでに早くなってることには気付きもせずに、言い返したり、言い訳を言ったりしてんですからね。

 残念ですね。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

子育てと倫理

2015-05-03 02:29:46 | エリクソンの発達臨床心理

 

 「掴み取る」ような眼や耳が必要な場合がありますね。特に安倍晋三政権が、しでかすことは、そうしませんとね。

 The life cycle cpmpleted 『人生の巡り合わせ、完成版』、p36の第1段落下から7行目途中から。

 

 

 

 

 

それで、私どもがここで取り上げるのは、発達に対する躾の単純な原因結果の効果ではありません。そうではなくて、お約束しましたように、「身体でも、心でも、対人関係でも」そのパターンが、お互いに、似てくる、ということなんですね。すなわち、文化的なパターンに内在する論理(後ほど、「エートス 倫理」として議論する1つの論理です)に導かれなくてはならない、社会と折り合いがつく発達がテーマです。社会と折り合いがつくような発達は、自我の「諸器官」を社会と折り合いがつく形で統合する自我の成長する力になるはずです。

 

 

 

 

 身体も心も対人関係までもが、そのパターンが似てくるのは、不思議ですね。そのパターンはその分かがよしとする倫理によって導かれると言います。倫理的に良しとされることが、躾られるからですね。

 ですから、子育てにおいては、ヴィジョンがなくてはなりません。その場しのぎでは許されない、という訳でするね。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする