
思わせぶりなタイトルでゴメンナサイ。
根源的信頼感と根源的不信感の話をこのブログで書いてますでしょ。今日もその続きを書こうという訳なんですね。
愛着障害は、ジョン・ボウルビーが唱えた愛着、母子の見えない絆の視点から名付けなれた名前です。エリック・エリクソンが唱えた根源的信頼感の視点から名付けるとすれば、「根源的不信感障害」なんですね。すなわち、自分のことは、価値がないと感じていると同時に、人も当てにならないと感じている、心の根っこにある傾きなんですね。いろいろなご意見があるでしょうけれども、その中心になる感情は、「激しい怒り」、エリクソンがよく使う言葉で申し上げれば、rageです。これは単なる「怒り」ではなくて、「激しい怒り」「激怒」です。漫画であらわすとすれば、頭から湯気が出てんでしょう。
この「激しい怒り」こそが心の時限爆弾なんですね。必ず爆発するからです。時限爆弾なら、一回爆発したら、それでお終いでしょ。でもね、この「激しい怒り」は、繰り返し爆発するのが、その特徴の一つです。一日に何度も爆発することも、そう珍しいことじゃぁない。
この「激しい怒り」は、コントロールするのがほぼできませんね。「ほぼできない」と申し上げるのは、コントロールすることができる場合もあるけれども、それはまれだ、ということです。ましてや、コントロールする術を得る人は、さらにまれだ、ということです。別に、現在進行形の連続テレビ小説を宣伝しようと言うんじゃないんですね。
ですから、そういう人の特色は、もちろん、その「激しい怒り」が爆発して反応することです。いろんなことで「激しい怒り」が刺激されますでしょ。その度に爆発するんですね。「激しい怒り」だからって、怒鳴り散らしたり、大声を上げたりするんじゃぁない、そればかりが、「激しい怒り」の反応じゃぁないんですね。
私に言わせれば、怒鳴り散らすことよりも、「素直になれない」ことの方がはるかによくあるケースですね。ですから、自ずから「ウソとゴマカシ」が多くなりますでしょ。そうすると、顔つき、目つきまで変わってくんですからね。ことばではピッタリと表現することはできません。出来るだけやってみますと、そういう人の眼は、必ず曇っています。いやほんとは「雨」なんでしょうね。顔つきも、どことなく暗い。笑っていても、眼が笑ってない。
そういう「激しい怒り」の人はね、ずくに反応するんですね。ですから、すぐにそれと分かります。黙ってませんからね。それはね、立ち返る所を失っているからなんですね。ティグ・ナット・ハーンさんなら、「自分の息に戻りなさい」と言うでしょ。でも、「激しい怒り」の人にそんなことを言っただけでは、ウントモスントモない、ピンとこない。聖書でも、同じです。「立ち返って静かにしていれば、救われる」(イザヤ書第三十章15節)ですからね。自分の息、ルアーハ、プシケーに戻るんですね。でも、「安らかに信頼」(イザヤ書第三十章15節)している相手がないんですね。迷子のコマッタちゃん。でも、自分は〇〇教の信者だと思ってるんですからね。
でも、「激しい怒り」の人は、カチンとくれば、自分の息がすでに早くなってることには気付きもせずに、言い返したり、言い訳を言ったりしてんですからね。
残念ですね。
