エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

「ありのままが認めて」もらえない憎しみ 改訂版

2015-05-24 10:09:30 | アイデンティティの根源

 

 ルターがプレゼントとしての「いいよ」が戴けると分かった時の感動は、いかばかりだったでしょうか? ジーンとからだ全体が熱くなるだけじゃぁなかったかも…。Young Man Luther 『青年ルター』p202の第3パラグラフから。

 

 

 

 

 

 フォーゲルザンクが見つけ出したのは、ルターが葛藤を抱いていた伝記的な証拠と筆跡学的な証拠で興味深いものがあります。フォーゲルザンクは書いています「ドレスデン版の詩編を全部見渡しても、スコラ学者らが「詩編」第30章1節[キング・ジェームス版では第31章になります]に対してしたような、個人的な絶望を直接語ったところは全く見あたりません。ルターの講義の落ち着いた態度に耳がなれた者には、他では見つけ出すことができない言葉の暴力と熱情を聞き取ることができます。大事な言葉、すなわち、in justitia tua libera me〔あなたの義をもって、わたしを助けて下さい。「詩編」第31篇2節の関根正雄訳」を、ルターは恐れと不安の中で飛ばします。それで、ルターはとっても安心できる聖句 『あなたのみ手に、わが霊を委ねます』(「詩編」第31章6節の関根正雄訳)にも、耳を閉ざしてしまいました」と。

 

 

 

 

 

 自己受容とか、自尊感情とか、セルフエフィカシーだとか言います。エリクソンは、根源的信頼感 a sense of basic trustと呼びます。これは、少なくとも最初は、結局は最後まで、自分一人では高めることができないところに、その特色があります。キリスト教でよく出てくる「救い」、日常語で言えば、「ありのままが認められる」ことは、「認められる」と受身形で言われるように、受け身の体験です。ですから、ルターも神様から「ありのままを認めて」もらいたいと願っていたのに、in justitia tua libera me〔あなたの義をもって、わたしを助けて下さい〕は、そのように読めないと、思い込んでいたんですね。だから深い憎しみを抱いたんです。

 これは昔話ではありません。もろに、現在進行形で爆発的に進んでいる現実です。

 

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エリクソンは天才! ≪背後≫の意味するもの

2015-05-24 07:37:42 | エリクソンの発達臨床心理

 

 人は、二本足で立った瞬間から、向きができます。そこから、心の中にも向きができます。オリエンテーションです。

 The life cycle cpmpleted 『人生の巡り合わせ、完成版』、p41の下から3行目途中から。

 

 

 

 

 

ですから、恥は、まっすぐに立った時に、《人前》でさらし者になることを意識することだけじゃぁなくて、自分には《背中》があること、特に「お尻 behind」があることを意識することでもあります。「自分の《背後》に」いる人は、このように、「自分を支持」し、前進する時に自分を手引きしてくれる人なのか、自分が知らないうちに自分を見張って、「自分の《後》」を付けて、「自分をモノにしよう」とする人なのか、という二律背反するものになります。《下の背後》は、私が育って追い越したものだったり人だったりすることもあれば、私が置き去りにして、忘れ去り、捨ててしまいたい相手かもしれません。

 

 

 

 

 《背後》にあるものは、自分を支持し応援してくれる心強い人になることでもあれば、自分を見張り、窮地に落とし入れる油断ならない人になることもあります。今日の後半は、ちょっと怖い。でも、人の気持ちの暗部を、ビックリするほど明瞭に、オリエンテーションの中で示してくれています。エリクソンって、苦労はしましたが、やっぱり天才ですね。

 

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「一緒に遊ぼっ」 ∵遊び=祈り

2015-05-24 03:43:55 | エリクソンの発達臨床心理

 

 先日見たハローhalo、日暈(ひがさ)、ないし、単に暈(かさ) 綺麗ですね

 

 
ウソだらけ、ゴマカシだらけ の日本
   ウソとフリ マックス・ウェーバーを彷彿させるもの 大人になって、あんなに楽しかった遊びを、つ...
 

 「100分で名著」の番組で、今月は「荘子」が取りあけられていますよね。その解説者か、臨済宗の僧侶で、作家の玄侑宗久さん。その第3回目が、先日放送になりました。そのタイトルが、「自在の境地「遊」」。玄侑宗久さんは、そこで、「遊」の漢字の意味を、白川静先生の本から引用して「神と人が、一体になった境地」と解説していました。玄侑さんはまた、「人間的な思惑や分別を超えた世界」とも解説しておられました。そして、番組の最後に「生きることを『遊』にしたいですね」と締めくくられました。ホントにそうだなぁって、感じましたね。

 白川静先生の『字統』(p838)で、「遊」の字を見てみますと、「すべて自在に行動し、移動するものを遊といい、もと神霊と遊行に関して用いた語である。我が国の遊部(あそびべ)が、喪祝として神事に与るものてあったことは、遊の古儀をなお存するものである。遊君、遊女なども、もとは神につかえるものであった。うかれ、遊びは、すべて人間的なものを超える状態をいう語であった。また「あそぶ」という語も、神遊びが原義であり、「あそばす」という敬語もそこから生まれる。神と共にある状態をいう」とあります。素晴らしいですね。

 かたや、教員や親が子どもたちに1番よくいう言葉は、と言うと、「宿題やんなさい」、「勉強しなさい」です。学校だと、正しいこと、真面目を子どもに押し付けますね。これが、子どもの心を最も深く傷つける、最も危険なことなのに、そのことを一顧だにしないことが、あまりにも多い。また横道です。

 大人は、「遊びなさい」「遊ぼう」とは言わない。そういう大人は、「遊び=怠け」と誤解してんですね。荘子も知らなければ、白川静先生の『字統』も知らないし、玄侑宗久さんも読んでないでしょう(かく言う私も、玄侑宗久さんは未経験)。丸山眞男教授みたいに言いかえれば、教員や親など、多くの大人は、遊びの精神、ガイストを知らない訳ですが、「どこまでも大事なのは、人生に、子どもの暮らしに、遊びの精神が生かされており、遊びの精神が、遊んでいる人、遊んでいる子どもを見る大人と、内面的に結びつき、それが遊び自体と遊びにたいする大人の考え方をどのように規定しているか、という、いわば大人の遊びに対する認識論的構造にある」、ということになりますね。

 そう、遊びは、荘子やエリクソンや、白川静先生が教えてくれているように、神様と交わるものでして、” 祈り “ そのものです。

 子ともに言ってくださいね。「一緒に遊ぼっ」ってね。

 

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