エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

病気だから、人を惹きつける

2015-05-04 08:55:05 | アイデンティティの根源

 

 一見強そうなルターにも、いろんな弱さがありました。

 Young Man Luther 『青年ルター』p197の第3パラグラフから。

 

 

 

 

 

  

 しかし、精神科医がルターを誤解するのは、説教のおかげで成功した時でも、内因性の病気のために、ルターはバランスの良い人になれなかったと考える場合です。結局、ルターはルーテリアンではないんですね。いやむしろ、ルター自身が心の中でつぶやいたように、ルターはとっても悪いやつでした。良心の突端で、汚らしい働きは止まりませんし、ウソの古い言葉を治めることもできませんし、新たな純粋さもずっとハッキリしないままです。ルターがいったん説教者となり出すと、ルターは威勢よく説教しました。時には強迫的に、毎日説教しました。旅の時には、ルターは、歓迎してくれる教会や市場で説教しました。後年、ルターが病気と不安から、家を離れられなくなってからは、妻や子どもたちやお客人を自分の近くに集めて、その人たちに説教しました。

 

 

 

 

 ルターの説教は、人を惹きつけてあまりあるものがあったんでしょうね。ルターは半ば強迫的に説教をする毎日でした。病気だから、という人もあったでしょうし、今でもあるのかもしれません。でもね、病気だったから、人を惹きつける説教ができる、というのか真実じゃぁないかしらね。

 フロイトもしかり、ユングもしかり、このエリクソンもなおさら然りですからね。

 

 

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「出す」のにも、いろんな「出す」がある

2015-05-04 07:24:08 | エリクソンの発達臨床心理

 

 筋肉と心と対人関係は、似ている。

 The life cycle cpmpleted 『人生の巡り合わせ、完成版』、p36の第2パラグラフから。

 

 

 

 

 

 代わる代わる「ガマン」と「出す」という単純にして機能的なことに関して言えば、お尻の舞台を支配し、お尻を戦場にもするかもしれない「ガマン」と「出す」というやり方をバカにする文化もありますよ。そういう文化が持つ「もっと欲しい」ということがその文化のエートス、倫理の中心になるでしょう。さらに発達する際、このような「我慢する」ことに関するやり方は、破壊的で残忍なガマンやら圧力にもなりうるし、かたや、世話をするパターン、すなわち、捕まえ胸に抱くのに役立つ場合だってありますでしょ。「出す」のでも、同様に、破壊的な力を、敵をやっつけるように発揮することにもなりますし、「大目に見る」だとか、「放っておく」だとかといった、肩の力を抜いたものになる場合もありますね。その間に、挫かれる感じも(あまりにも多くの二重の意味がありますし、躾をし過ぎる場合と、躾をしなさすぎる場合とがあります)深い恥と深い疑惑をもたらす場合もあります。それは、「思った通りにできた」と感じる場合もあれば、「望んだことをしたまでだ」と感じる場合もあるのにもかかわらず、です。

 

 

 

 

 お尻の働き、我慢すると出す。この括約筋の2つのやり方もが、まさか、心の動きにも、対人関係のあり方にもなる、とはなかなか気づきませんね。でも、それと分かると、非常に面白いし、自分や人の心の動きも、リアルに理解することができますでしょ。

 

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佐世保と名古屋の後で

2015-05-04 03:17:44 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 
「アイ」の源
   意識と無意識をつなぐ「楽しい」 3つの意味が子どもの遊びにはあることを、前回は学びました。今...
 

 ある小学校の校長から、学校訪問(定期的な心理面接のための訪問ではなくて、1年に一遍、心理的に困難な子がいて、心理相談をする準備ができているかどうかの確認のための訪問。ついでに申し上げれば、心理的に困難な子がいない学校など、今の日本には皆無です。)「何故なんでしょうか?」と訊かれたことがあります。

 何のことかといえば、昨年の12月に名古屋大の学生が、高齢の女性を殺したり、昨年の7月には、佐世保の高校生が、同級生を殺したりした事件がありましたでしょ。その時に、「誰でもいいから、殺してみたかった」ということを容疑者の未成年の女性たちが口にしていたから、そんな気持ちになるのは「何故なんでしょうか?」ということでした。しかも、この2人の少女は、学校では「勉強ができる優等生」ということでしたから、ふつうは、「生徒指導」の対象ではないでしょ。ちょっと変わったことがあっても、「お勉強ができる頭の良い子だから」ということで、小学校などでも、教員の「マーク外」、「想定外」の児童・生徒ということになるでしょう。だから、この校長にすれば「?」ということになったのでした。

 私は、この校長は「えらい」と感心しましたね。普通は新聞やテレビの話と、自分の日常生活は結びつけません。新聞やテレビの世界は、「他人事」。「私には関係ございません」という顔をしている人がほとんどでしょ。しかし、この校長は違いました。「もしかしたら、自分たちの日々の働きと、この大事件の容疑者の少女たちと、関係があるかもしれない」と感じればこその、質問だったはずてすよね。

 私は、そういうときには、根源的不信感の話をすることにしています。まぁ、どんな場合でも、根源的信頼感と根源的不信感の話を、現実にはするんですがね。私の「一張羅」、「バカの一つ覚え」でもある訳なんですね。この時も、根源的不信感についてお話しましたね。「赤ちゃんの時に、お母さんとの関係で、赤ちゃんがオッパイやオシメやあやしてほしい時に、お母さんがタイミング良く応えることが、繰り返しできない時、それが、何百、何千、何万回も繰り返されるときに、その赤ちゃんの心にできる傾向が、根源的不信感で、それは『自分には値打ちがない、ガラクタだ」という感じと、『どうせこの母親は(それから、その他の人も、世の中も)当てにはならない』という感じを足した感じが心の底に、通奏低音のごとく、一生残りかねない上に、普段はなかなか気付きもしない、最も根源的な心の傾向として残るんですね」と、まぁ、そんな感じの話をいたします(話が長いでしょ)。そして、続けます。「そういう人は、自分が『生きてる』って実感が弱いんですね。ですから、人と比べて、自分が優位になった、と感じる(正確には、錯覚する)時にだけ、ほんの瞬間、ほんの束の間、『生きてる』って実感出来るんです。ですから、そういう子は、勉強でも、喧嘩でも「勝ちにこだわる」負けず嫌いになります。だから、ひとより『目立ちたい』とか、『負けられない』と強迫的な行動するようになります。また、自分より弱い存在を虐めたり、殺したりする時だけ『生きてる』という感じを実感するんです」と言います。さらに話が続きます。そして、「その根源的不信感は、どなたにも、校長にも私にもあるんですね」と。これでワンセットのお話が終了です。

 でも、これじゃぁ、単なるお話、解説であって、じゃぁ、その質問の主の校長は、ことの次第は分かっても、自分らがどうすればいいのかは分からないままでしょ。ですから、さらに話が続きます(いっそう話が長くなりますね)。「じゃぁ、どうすれば、根源的信頼感を少しでも回復でかるのか? が大事になりますね。それは、その子のお話に真摯に耳を傾けることです。ことばを換えて申し上げれば、その子と楽しい時間を共に過ごすことです」ということです。

 それが「アイ」と生み出す。

 猟奇的事件を起こすような人の子ども時代は、この「楽しい時間」が極端に少ないはずです。でも、子ども時代の「楽しい時間」が極端に少ない人はね、何も猟奇的事件を起こした人だけじゃぁないのが、今の日本の背筋も凍る現実です。

 

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