エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

絶望の心理

2015-05-26 07:59:12 | アイデンティティの根源

 

 あのルターでさえ、根源的信頼感が脆かった。なんか逆に安心しますね。

 Young Man Luther 『青年ルター』p202の最終行の途中から。

 

 

 

 

 

フォーゲルザンクは続けて言います。「ルターは直ちに『憐れんでください、主よ』(ここの手書きは、とっても興奮していますし、混乱もしています。ルターはここに何度も下線を引いています)に進み、そして、『詩篇』第6篇(キング・ジェームス版では第7編)の言葉の中で、Ex intuitu irae die(あなたの怒りによって【関根正雄訳】)の中で、震えた良心で、お祈りします。「詩篇」第31篇(15節)の聖句、「in te speravi Domine」(「しかしわたしは、ヤハウェよ、あなたにより頼み」【関根正雄訳】)の聖句におかけで、試練から呼び覚まされそうな時でも、この議論が歪められて、「詩篇」第6篇の聖句(Ex intuitu irae die(あなたの怒りによって【関根正雄訳】))に絶対に戻ってしまうのでした」と。

 

 

 

 

 ルターの絶望の深さと、その深い絶望に陥った時の人の心の動きを、エリクソンがルターを手がかりに見事に描いているところでしょ。自分を絶望させる言葉から、眼が離れなくなっている状態ですね。

 これは、昔話ではありませんよね。現在進行形で、原発事故並みに、全国津々浦々にまで、広まっている現実ですよ。

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姿勢や身体の使い方は、人生を決めちゃう?

2015-05-26 06:51:09 | エリクソンの発達臨床心理

 

 自我を意識的と思っていたあなた、エリクソンが無意識レベルをも、自我が含むと聞いて、?と思いませんでした? エリクソンは自我心理学の一派に含む人もいますけれども、「意識的な自我と無意識」と考える自我心理学の人たちとは、エリクソンは明らかに異なると言えるでしょう。無意識的な自我を、自覚的な≪私≫に育てていく点を重視した点で、むしろ、ユングに近いと言えるでしょう。そして、自覚的な≪私≫(「意識的な≪私≫」としたのでは、不十分)を強調したところに、アイデンティティが生まれるのであって、自覚的な≪私≫がいかにもエリクソンのエリクソンたる所以です。

 The life cycle cpmpleted 『人生の巡り合わせ、完成版』、p42の第2パラグラフから。

 

 

 

 

 

 こういったことすべての関して、姿勢に関する(そしてまた、身体の使い方に関する)言葉の力は、成長している子どもを守ってくれる保証人のようなものなんですね。何を守ってくれるって、経験を自分でコントロールする「その子ならではのやり方」(その子の自我のまとまりの付け方)は、1つの集団が自分を確かにさせることに成功するいろんなやり方の一つですし、その集団が持っている、時空と人生に対する計画と一致しています。これについては、また後ほど触れますね。

 

 

 

 

 姿勢に関する言葉、たとえば「しっかりと立つ」や、身体の使い方に関する言葉、たとえば、うんちやおしっこを「ガマンする」などは、姿勢や身体の使い方を示しますが、同時に、気持ちや生きる姿勢を示しますでしょ。

 そんなことを日ごろ意識しませんでしょ。かく言う私も、臨床心理学、特にエリクソンを繰り返し読む前は、そんなことを考えたこともありませんでした。姿勢や身体の使い方が、実は、所属集団との関係にも、その人の生き方にも、深く深く関係しているんですね。不思議でしょ。

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「子どもの目」に応える大人の態度 子どもはすぐに分かるその態度

2015-05-26 01:52:11 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 
マルクスの名言
  ≪与えることの不思議≫。面白いですね。貰うつもりのない人が貰い、貰いたくて仕方がない人は貰えない、なんてね。今日は、p23の下から、10行目途中から。...
 

 河合隼雄先生の『子どもと学校』にも、マルクスが上掲のブログで言っていることと同じことが出てきます。小学生の一編の詩を題材にして、子どもの倫理性の高さを述べている件にそれがあります。その所を引用しておきましょう。

 「子どもの目は大人の目よりも人間の倫理の本質をより明確につかんでいるのでないか、とさえ思われるのである。大人たちが、ごまかしの多い人生を生きているとき、子どもは澄んだ目で、それを見ているのだ。とすると、学校における『特設道徳』の時間は、子どもたちから教師が学ぶ時間となるであろうか。」(『子どもと学校』p.166)

 河合隼雄先生は、もちろん教員が子どもに教えることがあることを了解しています。でもただ教えただけでも足りない。子どもの目に応えたことにならない、という訳ですね。そこで大事なのが、大人の態度ということになります。

 河合先生は、「子どもに対して開かれた態度で接することが、子どもの道徳性の発現にもっとも役立つことを強調した」(前掲書、p186)と言います。しかし、この「子どもに対して開かれた態度」は誤解されやすい。それは「見て見ぬフリ」です。お役人とお役人になった教員がよくやるパターンですね。河合先生は続けます。

 「(「見て見ぬふり」をする)ような態度は、今まで述べてきた、生徒の自由な表現を許すとか、教師の心を開いて接する態度と似て非なるものであことを、我々は知っておかなければならない。『見て見ぬふり』をするのは、相手と真のかかわりから逃げているのである」と。

 エーリッヒ・フロムと同じ言葉、「真のかかわり」「真の関係」と出てきますもんね。" 関係に対して誠実 "、ということですね。

 プリーズ、リピート、アフター、ミー。

 Please repeat after me.

 

 

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