エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

ルターの講義は、毒と薬

2015-05-15 07:43:05 | アイデンティティの根源

 

 ルターは、当今流行のいい加減な、軽薄短小の大学(院)教授輩と、比べ物になりません。

 Young Man Luther 『青年ルター』p200の第2パラグラフ9行目途中から。

 

 

 

 

 

ルターは自分の気まぐれを隠しませんでした(「私は単純に、抽象アブストラクトと具体コンクリートで、韻を踏みました」)し、時に使う力技を隠しませんでした。「堅い殻だと分かるテキストにできることと言えば、その殻を岩にぶつけることです。そうすりゃぁ、一番柔らかい核(nucleum suavissimum)がでてくるよ」。ルターはこういった言葉に欄外に記しを付けて、悦びました。ルターの誠実さは、スコラ哲学の神学者輩の洗練された気まぐれとも、信頼と理性の違いを正当化するお決まりの方法とも、全く異なるものでした。ルターの気まぐれは、現場に役立つ講義の一部ですが、玉石混淆なのは火を見るよりも明らかです。

 

 

 

 

 ルターの講義に、「荒い斑点や光沢」があったんじゃぁない。西平さんの理解も「石、石、石、石…」という感じで、この程度です。ルターの講義は、玉石混交だったけれど、生きるのに役立った。本物は、そういうものです。薬にも毒にもなるもの。「御説ごもっとも」というものではなかった。

 

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ナゾナゾ遊び、一席

2015-05-15 06:52:03 | エリクソンの発達臨床心理

 

 子どもは、次第に経験する時空も広げていきます。大事な大事な始まりです。

 The life cycle cpmpleted 『人生の巡り合わせ、完成版』、p40の第2パラグラフから。

 

 

 

 

 

 精神分析理論は、精神性的ないくつかの段階の間、仰向けか、腹這いなのか、立ってるのか、歩いているのかという条件が変わることの違いを、重要視しません。ただし、エディプスにまつわるナゾナゾは、とっても大事です。すなわち、「朝、四本足で歩き、昼間は二本足、夕方は三本足、さてなあに?」。そこで、赤ちゃんの時の姿勢に、もう一度戻って、赤ちゃんが時空の中で抱く根源的な見通しが決まる決まり方(そのやり方は、心理性的な段階にも、心理社会的な段階にも一致する)を説明したいと思います。

 

 

 

 

 朝三本足、昼間二本足、夕方は三本足、?

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1941年12月8日の東京市民の表情は、愉しそうでした

2015-05-15 02:16:19 | エリクソンの発達臨床心理

 

      今日のタイトルは、加藤周一さんの『加藤周一コレクション 5』p.25最後から2行目。

 
滅びと復活
  理性の人、ピアジェ先生、あなたも、ですか? イナイ・イナイ・バーのように、一度見失ったものを再び見つけ出す、赤ちゃん...
 

 三大新聞やNHKや東京キー局のテレビの「ジャーナリスト」が、大本営発表の広報官になっている現状は、嘆かわしいと考えます。週刊金曜日はともかく、その他のマイナー新聞の「ジャーナリスト」も、「大本営」広報か、あるいは「自分」の宣伝になってる場合もありますね。いずれもその自覚がないのが、共通する特色です。お病気が重たいようです。賀川豊彦も泣いているでしょう。

 今日、大大大ウソつきで、お腹が痛くなると「僕、辞める」と言ってた安倍晋三首相が、人をぶつこと→ぶっ殺すことが「強いこと」だという幻想に囚われて、戦争一括法案を閣議決定して、国会に提出する、と言います。2015年5月15日の東京市民も愉しいのでしょうか?

 日本人のオリエンテーション、「何のために生まれて、何をして生きるのか?」を知るうえで、加藤周一さんの『日本文化の時間と空間』が最も優れた教科書です。敬愛する河合隼雄先生の本よりも遥かに、日本人の心を実に的確に描いています。日本人の行動原理は「無私」です。実に美しい。その中身は、「自分が得する方に、いつでも豹変すること」です。「無私」と「自分が得する方に豹変する」ことが、=になるのが、日本社会の特色なんですね。なぜならば、日本人は「原則を捨てて立場を変えるのではなく、立場を変えることを原則とする」からです(p.122)。

 「1945年夏、「日本人」は集団的に、「みなさん御一緒」に、ほとんど一晩で生まれ変わった」(p.124-5)のですから、また、2015年夏、「日本人」は集団的に、「みなさん御一緒」に、ほとんど一晩で、真逆に、生まれ変わっちゃうのでしょうか?

 「ムラ人個人とムラ集団との関係は、先にも触れたように、集団主義を原則とする。一般に地主・豪農は独裁者ではない。集団の決定は全会一致を原則とし、個人の異説があるときは、説得し、成功しなければ「村八分」とする」(p.226)。「民主主義」になった日本でも、この原則は変わらない。「粛々と」、ゴリゴリで進められる沖縄問題、辺野古基地移設も、この「説明」と「村八分」の現実を物語っています(海保が、基地移設反対の市民に対して実力行使している、その暴力を見よ)。

 「外国は日本共同体からはるに遠い存在である。彼らは教師(上)であるか、敵(下)であるか、その双方(上かつ下)であった。日本国は中国とも米国とも、また他の外国とも真に対等な交流関係を経験したことがなかったし、周知のように今でもない」。今回の「戦争律法」案も、米国(上)のポチとなった安倍晋三首相が、オッポをフリフリしていること、と捉えると、分かり易いでしょう。「上」にオッポをフリフリすれは、「強そうに見える」とあの人は信じて疑ってないからです。

 くしくも、加藤周一さんの『日本文化の時間と空間』は、成蹊大学での講義がもとになっています。安倍晋三首相は、きっと「お腹が痛く」なってたんでしょう、聴いてるはずはありません。

 

 私どもは、「復活」の道に入ったのか?

 私どもは、「滅び」の道に入ったのか?

 

 

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