エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

神からいただいた確信 ルターの場合

2015-05-12 07:52:01 | アイデンティティの根源

 

 ルターの宗教改革は、真面目に聖書研究をし、それに基づいて授業をした必然の結果です。今も全く同じなのは、先ほどブログにアップしました通りです。

 Young Man Luther 『青年ルター』p200の5行目途中から。

 

 

 

 

 

これが一番ハッキリするのは、マルティンが言ったことに誰も目くじらを立てなかったことですね。マルティンに関する限り、マルティンが言ったことは、正しい神学でしたし、教会の中での良い集会に役立ちました。さらには、初期のルター主義がもたらした印象とは異なり、ルターは、説教でも講義でも、その道に専門的に貢献し続けましたし、神からいただいた確信がある時だけ、自分の個人的な意見を言うのみでした。

 

 

 

 

 ルターの場合、いろいろ勉強して、集会で聖書の話(説教)もするし、大学で講義もしましたが、自分の意見を言うときは、神から確信を戴いている場合だけでした。とっても控えめですね。それは、関根正雄先生からも、野村実先生からも受ける私の印象と同じですよ。

 

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正しい翻訳が、正しい信頼、正しい学問になる 5訂版

2015-05-12 07:51:13 | エリクソンの発達臨床心理

 

 いま、Young Man Luther 『青年ルター』の翻訳を進めてますでしょ。とっても示唆に富んでいると思います。ルターも鋭かったけれども、エリクソンがその鋭さを取りこぼさずに指摘してくれているからだと思います。

 その中で、ルターが聖書を原典から翻訳して、ローマカトリックが使っている、すなわち、ルター自身も最初はローマカトリックの修道士でしたから、ルター自身が使っている聖書に翻訳の間違いがあることを知ったわけですね。それを突き詰めていったのが、正しい聖書の理解が、宗教改革をもたらした、と言っても過言ではありませんね。

 しかし、私は、現在も生きる、ルターの学びと、学びを通した気付きで、「これは昔話のようで、現在進行形のお話です。」と申し上げました。

 それは少なくとも、2つの意味で申し上げたんですね。

 1つは聖書、もう1つは、聖書以外です。

 まず聖書から。

 これはこのブログでも書いてきたことと重なりますが、非常に大事なところなので、もう一度。現在のプロテスタントは、信仰義認でしょ。「信じるから救われる」というものですね。その根拠になっている聖句は、いくつもあります。その一つが「ガラテヤ書」第2章16節ですね。新共同訳では

「けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、私たちもキリストを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、誰一人として義とされないからです。」

となっています。問題になるのが、「ピスティス イエスー クリストゥー πιστις Іησου Χρισου」です。「イエスー クリストゥー Іησου Χρισου」の属格を対格的に、目的語のように訳して、「イエス・キリストへの信仰」と訳している訳ですね。でもこの属格は、主格として訳すべきで、「イエス・キリストの真実」と訳すこともできす。「前田護郎訳新約聖書」がそうでしたね。このように翻訳するとき、信仰義認は、「万人救済」となります。

 もう1つが聖書以外。

 エリクソンの翻訳も、あまりにも誤訳が多いので、私はブログで翻訳して、ゆくゆくは出版しようとしている訳なんですね。今日は、エリクソンを挙げたいのも山々なんですが、もっと売れてる本にいたしましょう。

 それは紀伊国屋書店が出している『愛するということ』。タイトルからして間違ってますからね。『関係に誠実であること』とする方が正確です。でもね、そこんとこを取り上げるのではありません。

 The art of lovingのp21の第2段落。

法政大学教授の鈴木晶さんは、

「愛は能動的な活動であり、受動的な感情ではない。そのなかに「落ちる」ものではなく、「みずから踏み込む」ものである。愛の能動的な性格を、わかりやすい言い方で表現すれば、愛は何よりも与えることであり、もらうことではない、と言うことができよう。」

と訳しています。私は「くれない族」、あるいは、≪与える恵み≫では、

「真はイキイキ、ピチピチ生きることであって、仕方がないのでいやいややらされる気持ちじゃぁ、ありません。真の関係は「相手の身になる」ことであって、「相手を好きになる」ことじゃ、ありません。一番よくあるパターンだと、真の関係の、イキイキ、ピチピチする特色は、「真の関係は、(アンパンを)あげることであって、(ご褒美や≪自分が得すること≫を)貰うことではない」と言えるでしょう。 」

と訳しました。(アンパンを)と訳したのは、もちろん意訳で、アンパンマンのイメージがあったからですね。でもね。falling forは「落ちる」ことではなく、「好きになること」「惚れること」ですし、standing inは「みずから踏み込む」ものではなくて、「相手の身になる」ことなんですね。手前味噌で恐縮ですが、誤れる翻訳よりも、私の翻訳の方が分かり易くありませんか?

 

 ことほど左様に、日本で売れてる本でも、このような誤訳だらけですからね。ドナ・ウィリアムズさんという自閉症の女性が書いた本の翻訳なんぞは、原典と翻訳は全くの別物といっていいくらい。それで莫大な印税を稼いでんですから、あの女性の翻訳家(本役家=本を自分の利益に役立てる輩)には、恐れ入りますよ。

 ですから、ルターの課題は、我々の課題。間違った翻訳で、信頼や学問を築いている場合があるとすれば、正しい翻訳を行って、正しい信頼、正しい学問に気付いていかなくっちゃね。

 

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男の解放が実現されるとき

2015-05-12 07:43:06 | エリクソンの発達臨床心理

 

 もともと男と女の相性は良いものなんですね。

 The life cycle cpmpleted 『人生の巡り合わせ、完成版』、p39の3行目途中から。

 

 

 

 

 

女性の場合、無理矢理入り込むかもしれないオチンチンがないでしょ、(オッパイの発達も延び延びになれば尚更)この相性の良さが、ある文化的状況においては、女が男に頼る、ということに逃げ込むことを助長することもあるでしょう。反対に、これは、ある文化においては、付け入ることと馴れ合うこともあるでしょうし、女は、生むことさえしてくれればいい ということから生じる条件がある場合は、特にそうなんですね。少なくとも、文化の枠組みによっては、男女の経済的な役割が根っから違うことから、女が男に頼る傾向が、人間の条件の中で、女性が弱みにつけ込まれる結果になってしまいました。それは女性が、女性自身も期待したように、男に頼る時がそうで、しかも、頼る子ども(大人も)を世話する時でさえ、ないしは、そういう時には、殊更そうです。

 

 

 

 

 男と女の差が、男に女が頼ることを助長する場合があり、その時は女の弱みにつけ込むことがまま生じやすくなりますね。今の日本もそうですね。また、そこに経済的な依存関係が生じると、いっそう女性は抓む込まれることになります。

 ですから、女性が経済的に補償されることが、女性が付け込まれないために大事になりますし、女だけではなく、男の解放も、その先にあります。

 

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