エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

揺らぎの中で

2015-05-27 08:43:48 | アイデンティティの根源

 

 ルターは絶望のどん底にいた時、その絶望のどん底に落ち込む言葉に繰り返し戻っちゃた。戻らなきゃぁ良いのに、それがなかなかできなかった。

 Young Man Luther 『青年ルター』p203の第2パラグラフから。

 

 

 

 

 

 フォーゲルザンクはあんまり重視してないけれども、避けて通れないのは、詩篇は、ダビデが自分の敵、したがって、神様の敵を告発する詩だということです。すなわち、詩篇には、敵達の頭の上に、神の雷が落ちることを願ったり、敵たちの頭にも神の慈悲が下ることを願ってみたりする、心の揺らめきがありますね。「詩篇」第31篇には、ルターは無視しましたが、フォーゲルザンクが触れている聖句が他にもあります。それは、「彼らがわたしのためにもうけた / わなからわたしを助け出してください。 / あなたはわが護り手なのです」【関根正雄訳】という聖句です。

 

 

 

 

 「詩篇」記者は、心がいつも揺れてます。それは、わたしたちの心がいつも揺れているのと似ています。しかし、「詩篇」記者は、その揺らぎの中で、神様を信頼する方に賭けてみること、その良さ、その素晴らしさを表現し、詩にしている場合が多いのはなぜでしょう?

 

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歩くことは、人生を歩くこと

2015-05-27 08:03:32 | エリクソンの発達臨床心理

 

 身体の使い方が、自分や人の気持ちに対する見方に繋がってたり、人生に対する姿勢とも繋がってんですね。何故なんでしょうか?

 The life cycle cpmpleted 『人生の巡り合わせ、完成版』、p42の第3パラグラフから。

 

 

 

 

 

 結局、一人の子どもは、歩けるようになると、やりたいやりたいという感じで、あるいは、出来たという雰囲気で、繰り返し歩こうとしたり、うまく歩こうとするばかりではなくて、幼児性器期特有のでしゃばり通りに、他の人のパーソナル・スペースに、いろんな形で入り込んできます。このように、あらゆる文化圏で、子どもは「歩けるようになった者」の新たな状況や新たな立場に気付くようになります。だけれどね、この歩くことの意味には、相矛盾する意味があることが多いのね。すなわち、「歩けるようになった者」には、「遠くまでいける男の子」という意味もあれば、「眼を離せない男の子」という意味もあるし、「上手に歩ける女の子」という意味もあれば、「騒々しく遊ぶ」女の子になる、という意味もありますもんね。このようにして、歩くことには、発達の中でできるようになる、他のことと同様に、自尊感情に役立つものがあるはずです。この自尊感情は、人と分かち合うこともできるし、人の役に立つこともできる未来に向かう道を手に入れるようになれるし、その道の中で、心理社会的に自分を確かにさせるようにもなれる、という確信を反映したものです。

 

 

 

 

 

 歩くことには、実に深い意味があることが分かります。歩くことに自信を得た子は、人生を豊かに歩くことができるみたいですね。

 

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アベシンちゃんのチャンバラごっこ : 安倍晋三首相のオシバイ・作り話・ウソ

2015-05-27 02:43:30 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 
ウソになる想像力 真実になる想像力
  心の根っこにある傾向は変えられるの? 鋭い政治学者ハンナ・アーレントならではの、鋭い現実認識がエリクソンによって紹介...
 

 今日は、笑い話を一席。

 

 ある所に、アベシンちゃんと言う男の子がいました。みんなからは、「シンちゃん」と呼ばれていました。シンちゃんはお金持ちで、いいとこの坊ちゃんでした。でも身体が弱く、すぐに「お腹が痛い」と言っては、学校を休む弱虫でした。

 ある時、シンちゃんのクラスに、体が大きくて、太っちょの、乱暴者、アマちゃんが転校生としてやってきました。太っちょなのは、甘いものが大好物だからで、それで「アマちゃん」と呼ばれるようになったみたい。でも、カリンちゃんは、「アマちゃんは、人には厳しいのに、自分には甘いから『アマちゃん』と呼ばれるようになったんだ」と言ってたけど、うまいこと言うなぁと思ったっけ。

 アマちゃんは、転校生なのに、みんなを虐めるから、クラスのみんなを困ってた。だけど、力がバカ強かったので、アマちゃんに文句を言える人はいなかった。シンちゃんは、お家にアマちゃんを招待して、ケーキやチョコやアイスをご馳走したらしい。シンちゃんとアマちゃんが急に仲良くなったから、「なんか変だなぁ」とクラスの子たちは言ってたけれど、それには、こんなわけがあったって分かったのは、後になってから。

 シンちゃんは、お金持ちだけど弱虫だったから、クラスの子たちからは馬鹿にされてました。シンちゃんがお休みすると、「坊ちゃん、ハライタ、今日もお休み」などと言われて、みんなが笑ってました。だけど、アマちゃんが転校してきて、シンちゃんと仲良しになってから、そんなことも言えなくなっちゃった。何かシンちゃんの都合が悪いことを言うと、アマちゃんの怒鳴り声とパンチが飛んでくるようになったからなんだ。それで、シンちゃんが弱虫なことを、口にすることができなくなっちゃったんだ。ちょっとクラスの空気が重たくなったっちゃったって、思ったけれどね。

 ある時、隣町の子が、学校の近くの原っぱにやってきては、僕らの学校の子を虐めるようになった。そのリーダーは、アマちゃんと同じくらい太っちょで、眼が細い男の子だった。なんでも自分が中心じゃないと気に入らない、という話で、「自己中」なので、その子は「チュウちゃん」と呼ばれていた。でも、「自己中」と言えば、アマちゃんも自己中そのものだったから、アマちゃんも「チュウちゃん」でよかったなぁ、と思ったっけ。

 あるとき、急にシンちゃんが「積極的に仲良しになろう」と言いだした。みんな「なんか変だなぁ」と感じたのは、シンちゃんがアマちゃんと仲良くなった時と同じだから、2度目だった。だけど、それは、「積極的に仲良くしよう」とシンちゃんが言ってたのは、実際には、チュウちゃんたちとケンカをすることだった。シンちゃんは、国語の成績がいつも「1」だっから、言葉の意味もよく知らなかったんだ。でも「おバカ」と呼ばれたくないもんだから、「積極的」という難しい、覚えたばかりの言葉を使ってみたかったみたい。間違った言葉の使い方だとはみんな分かってたけど、シンちゃんに都合の悪いことは、口に出しては言えないから、みんな黙ってた。

 シンちゃんは弱虫だったから、チュウちゃんたちと喧嘩をするのは、いつだつて、アマちゃんだった。シンちゃんがやることと言えば、喧嘩をしているアマちゃんに、一口チョコやキャンディーを運ぶことくらい。だけど、時々、木の陰なんかから、チュウちゃんめがけて、石を投げてたことを見たことがある。ちょっとズルイなぁって感じ。

 このつづきは、またね。

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