眼と眼が交わること、見つめ合うことが育つことが、母子の大切な対話になる、と言いますね。それができませんと、心、魂が育ちません。逆に申し上げますと、眼と眼を合わせることを避ける子どもさんは、心、魂が育っていない、ということです。そういう人は、5才でも、15才でも、85才でも、心は魂は、赤ちゃんです。
The life cycle cpmpleted 『人生の巡り合わせ、完成版』、p40の第3パラグラフ7行目途中から。
お母さんがいる世界と「やり取りをする」ことが出来ないという、一番根っこになるものがないことは、眼と眼が交わることがないことに現れます。しかし、お母さんがいる世界とやり取りができれば、人はその後は、いつでも見上げる人、すなわち、尊敬する人を探すようになりますし、生涯を通して、「自分が掬われる、すなわち、救われる」出会いの中で、自分を確かにさせることができます。
エリクソンが、何気なく、赤ちゃんとお母さんがやり取りする場面を記述しますでしょ。それはごくごく当たり前の、赤ちゃんとお母さんがいる風景でもありますものね。何の変哲もない、ごくごくありふれた日常の一場面ですね。
でも、それが同時に、実に一生を左右しかねないやり取りでもあるんですね。でもそれだけじゃあないんですね。それは、「創世記」第15章6節「アブラムは主の中で自分を確かにさせた」にも通じる、日常を超越するものでも、あるんですね。不思議でしょ。
なぞなぞの答え、分かりましたか?