エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

#礼拝をする関係? #エリクソンの神髄 #日常生活を礼拝にする #無理解な鑪さんたち学会の人たち

2015-05-29 11:16:29 | エリクソンの発達臨床心理

 

 「宿題やんなさい」だとか、「ダメでしょ」だとか言ってばかりいると、子どもにとって一番厄介な悪魔が、その子どもの心の中で、その子どもと結婚式やって、末永く懇ろになりまっせ。

 The life cycle cpmpleted 『人生の巡り合わせ、完成版』、p43のブランクから。

 

 

 

 

 

 

        礼拝をする関係になる,日常生活を礼拝にする っていうこと

 発達途上の子どもと、世話を焼く大人の間にあって、あいまいに「対話」やら、やり取りやらとずっと呼び習わされてきたものが、いっそう人間関係の心のひだに関わるものになるのは、一番大事な特色、「礼拝をする関係」を描こうとする時なんですね。このritualization「礼拝をする関係」と言うのは、エソロジー、すなわち、動物行動学から借りてきた言葉です。この用語は、ジュリアン・ハックスリー(1966年)の造語で、いわゆる社会的な動物がやる系統発生的な「儀式のような」行動、たとえば、ある種の鳥たちがやる、派手な挨拶の儀式を指すものです。しかし、ここでは注意をしていただかなきゃならないことは、「セレモニー、儀式」とか「儀式のような」とかいう言葉は、この文脈では、引用符の中でだけ意味をなす、ということですし、たとえば、「リチュアル、(繰り返す)儀式」とは、手洗いという強迫的行動を臨床的な特色付けるものとして用いらる、ということなんですね。

 

 

 

 

 エリクソンにとって、キーになる考え方が、この「儀式をする関係」と私が訳していますritualizationなんですね。これが分かるのか、分からないのか、で、エリクソンが分かるか分からないかが、決まってきます。分かれば、エリクソンのライフサイクルモデルについて理解している、と言うことができます。しかし、学会での評価は別として、これが分かんないさんのような人は、エリクソンのことは何もわかっていないと言っても過言ではないんですね。

 それほど、このritualization、従来は「儀式化」と訳されてきた、「礼拝をする関係(になること)」「日常生活を礼拝にすること」は、非常に、とっても、極めて、大事なところ,“エリクソンの神髄” なんですよ。

 

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ルターがくれる福音 改訂版

2015-05-29 08:13:32 | アイデンティティの根源

 

 ルターの敵は、周りにも多かった。でも最大の敵は、「内なる敵」でした。

 Young Man Luther 『青年ルター』p203の第2パラグラフ下から12行目途中から。

 

 

 

 

 

ルターは「いいよ」と認めてもらおうとして、自分の強迫的な良心を嫉妬深い父親から解放し、また、自分の考えを中世神学から自由にしたおかげで、この新しい洞察を、神様が誰にでも分け隔てなく下さる施しに当てはめることを、心理学的に言えば、ルターは、くすぶり続けた深ーい憎しみがあったればこそ、本物の黙示録的な、最終的解決(を深ーい憎しみにもたらし、神様から「いいよ」と認めてもらうこと)ができたんだ、ということでした。

 

 

 

 

 深ーい憎しみをいだいたなら、自殺するか、秋葉原事件のような事件を起こすことにもなりかねませんね。いまは、そんな危険な傾きを示す子どもがゴマントいる時代なんですね。別に脅かす訳じゃぁない。子どもをよくよく見ていると、そんな子が次々見えてきますもんね。一見大人しそうにしているけれども、気持ちを繰り返し我慢して、我慢していることも忘れているかに見える子です。でもなんかヘンという感じの子。

 でもね、ルターはその深ーい憎しみを解決して、本当に「天にも昇る悦び」を体験したんですから、それ自体、福音でしょ。

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「小さな事件」が大切 改訂版

2015-05-29 06:13:09 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 
労わりとしての≪真≫
  ≪真の関係≫って、素晴らしい関わり合いですね。それを実際に体験すれば、だれでも嬉し泣き、男泣きでしょうね。今日はp24の下から4行目から。&...
 

     ヨナの黄泉帰り

 

 小学校の1年生。体育館でのスポーツ観戦の時に、「遊びのオジサン」である私も、1年生と一緒に観戦してました。事情は分かりませんが、クラス全体で座る位置が少し動いたんですね。そしたら、すぐに動ける子と、そんなことになっているとは知らずに動かずにいる子が出ます。知らない子どもは、動いた子どもに押されることになって、その隣の子にも身体がぶつかります。そして、「小さな事件」が起こります。

 ある女の子が不満気に言います「○○ちゃんがぶつかってきたのに、謝らない…」。でも、その「ぶつかってきた子」も、お隣の子がぶつかってきて押されたんで、「自分だけが悪いんじゃぁない」と言いたげだけれども、口実が上手などこかの政治家みたいに、言葉にできないから、黙っているだけ。なるべく、不満げの子を見ないようにしているけれども、そっちを気にしてる感じ。そこで「遊びのオジサン」は、ぶつかってきて謝ってもらいたい子と、自分も押されたんだから、痛い思いもしているのに、自分だけが謝るのが嫌な子との間に入って、「じゃぁ、オジサンが、代わりに謝っちゃおうかな」と言って、「ぶつかって、ごめんなさい」と言ってみた。だけど、ぶつかってきた子に謝ってもらいたいのに、「勝手にオジサンが謝ったって、私は許さないんだから」と言わんばかりの女の子の不満げな表情です。でもね、「痛かったから、ビックリしたし、悲しかった」というその不満げなとは別の、もう1つ気持ちにも、ちょっぴり触れたみたい。その子は泣き出しました。その「ビックリして、悲しかった」気持ちが表現できたんです。オジサンは「良かった」と思いました。たとえ、不十分だったとしてもね。ですから、マハトマ・まど・みちおさんみたいに、「涙って、素晴らしいね」と繰り返し言ってみました。ぶつかっちゃった子も謝りたくないので、きっとホッとしたはずです。これでめでたしめでたし、と思ったっけ。

 そこに担任現れる。「もう大丈夫ですから(オジサンは関わらなくっていいですよ)…」、「ぶつかったら、謝ります、ルールですから」という訳です。ホッとしたばかりの、ぶつかっちゃった子は、たまらず泣き出します。そりゃそうですよね。ホッとした瞬間に頭をガツンとやられたようなもんですからね。私はその担任に間髪を入れずに申し上げました。「ルールを当てはめるんじゃぁなくて、子どもの気持ちを丁寧に聴かないとね、そうしないと、子どもの心に傷が残ります」とね。その女性の担任は何も言いませんでした。ただ、さっきオジサンが代わりに謝った女の子以上に不満げです、不安げです、その担任が。私は2人の泣いた子が、落ち着くのを待ってから、その場を離れました。

 1年前のフロムの言葉。

 「≪真の関係≫の神髄は、何かのために「損をする」ことですし、「何がが成長するのを助ける」ことだ、ということです。≪真の関係≫と「損すること」は切っても切れないものなんですね。≪真の関係≫は、自分が損しても係るのは、相手のためですし、自分が損しても係るのは、その相手と≪真の関係≫があるからなんです」

 この「損をする」とは、「時間をプレゼントする」「そのゆとり、その遊びを作る」という場合が、実に多いんですね。ですから、今日申し上げたような「小さな事件」に「時間をプレゼントするゆとり、時間をプレゼントする遊びが大事」という訳ですね。面白いでしょ。

 

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