エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

≪真の関係≫の中で   ルターの静かな朝

2015-05-13 08:24:20 | アイデンティティの根源

 

 激烈に見えるルター、実は控えめでしたね。

 Young Man Luther 『青年ルター』p200の第1パラグラフ下から5行目途中から。

 

 

 

 

 

ルターが自分の深い後悔について、聖書の話の中で論じた時、ルターは次のように告白しただけでした、「私は、この≪本当の自分≫に達しました、などとはとても言えるものではありません」と。でもね、この日は、ヴォルムスで、神聖ローマ帝国皇帝に面会する日でしたが、今から歴史的な集会に参加するために出発するところだとは、一言も言いませんでした。

 

 

 

 

 

 ルターは動揺していたから、聖書の話の中で、自分の後悔に触れて、ヴォルムスには触れなかったのでしょうか? いえいえ、真逆ですね。真実な≪真の関係≫の中では、自分がいかにチッポケな存在なのかを、いやと言うほど知らされます。ですから、「≪本当の自分≫に達しました」などとは、ゆめゆめ言えない。

 ですけれども、その≪真の関係≫のなかで、そのチッポケな自分でも、価値を認めてくださる方と出会えるので、ことばにできない悦びがありますでしょ。ですから、普通なら非常な困難が予想できるところでも、善い見通しを心描いて、泰然自若としていたわけですね。

 こうして、自分が破門される朝、日本的に言えば、自分が村八分にあう朝に、ルターは静かな朝を迎えていたのでした。

 これは昔話ではありません、現在進行形のことです。

 

 

 

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高い高い、性のエートス

2015-05-13 07:50:35 | エリクソンの発達臨床心理

 

 女が弱みにつけ込まれるのは、文化状況の故ですね。その際には、女は男に頼らざるを得ない社会状況が背景をなします。

 The life cycle cpmpleted 『人生の巡り合わせ、完成版』、p39のブランクの上12行目途中から。

 

 

 

 

 

他方、男の場合、退行的な依存を求めるニーズ、あるいは、実際に、自分の母親に慈しみ深く一体感を持つことは、同じ文化状況においては、戦闘的に過剰に補償されることになりかねません。それは、「無理矢理に入る」感じで追究する方向に行きます。たとえば、狩猟、戦争、競争、あるいは、搾取です。ですから、男も女も、反対のやり方は、比較研究すると良いんですが、こんな類のあらゆる理論的な結論が、鋭い価値の対立になる時代にあっては、最も用心してやらなくてもなりません。大事な点は、今日の社会的実験と、手に入る洞察によれば、男の子も女の子も、自由になった大人たちと共に、自分が確信を得られる、ひとつの性のエートスに、結局は導かれることになるはずだ、ということです。

 

 

 

 

 1つの性のエートスを手に入れるってきっとすごい困難、猛烈な葛藤の末に手にはいるものだと感じますよ。社会的な実験、いろんな人間関係で試したことから得る洞察が必要だと、エリクソンはサラッというだけですが、私が申し上げたことを経験しないと、実際にはこのエートス、倫理は手に入りません。

 

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キリストのまこと 「ガラテヤ書」から考えました 改訂版

2015-05-13 03:05:55 | エリクソンの発達臨床心理

 

 今日は、「キリストのまこと」について考えます。意外にこのテーマでブログを書いてなかったんですね。不覚でした。

 昨日、当ブログの正しい翻訳が、正しい信頼、正しい学問になる 5訂版で、「ガラテャ書」第2章16節を取り上げましたね。その時に、「ピスティス イエスー クリストゥー πιστις Іησου Χρισου」の「イエスー クリストゥー Іησου Χρισου」の属格を、対格にとるか、それとも、主格にとるかで、意味が全く異なるというお話をしましたね。日本語でも英語でも、ほとんどの翻訳は、これを対格にとって、「イエス・キリストへの信仰」(新共同訳聖書)などと訳しています。これが今「正統的な翻訳」とされます。聖書の翻訳は、その人の信頼=信仰と切り離せませんから、翻訳はその人の信頼感の表明≒信仰告白です。「正統的な翻訳」=「正統的な信仰」となりがちです。

 ここで私が、「定説」を覆して、「イエスー クリストゥー Іησου Χρισου」を主格に取るべき、などと申し上げると、「ちょっと傲慢じゃないの?」と感じる方もいるかもわかりませんね。日本のキリスト教の「仲良しクラブ」的な現状を考えると、そういう印象を持たれても、仕方がありません。日本の厳しい現状を考えると、「仲良しクラブ」ではね…と思うのですが、「仲良しクラブ」が止められない人いますね。残念ですね。でも、今日はその話は止めにしましょう。「ガラテヤ書」第2章16節に戻ります。

 もう一度、新共同訳で見てみましょうか。

「けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、私たちもキリストを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、誰一人として義とされないからです。」

 「イエスー クリストゥー Іησου Χρισου」を主格にとった、前田護郎訳も見てみましょう。

16人が義とされるのは律法の行ないによるのでなく、ただキリスト・イエスのまことによると知って、われらもキリスト・イエスを信じました。それは律法の行ないによらずに、キリストのまことによって義とされるためです。律法の行ないによっては何びとも義とされないからです。」

 違いが分かりますか?「ガラテャ書」第2章16節には、「ピスティス イエスー クリストゥー πιστις Іησου Χρισου」が2回出てきます。下線を引いたところです。新共同訳では、「イエス・キリストへの信仰」、前田訳では「キリスト・イエスのまこと」となってますね。

 でも、ゴシック体で翻訳しているところは、新共同訳でも、前田訳でも、「キリストを信じました」、「キリスト・イエスを信じました」と同じです。ここは、「ピスティス イエスー クリストゥー πιστις Іησου Χρισου」ではなくて、「エイス ハリストン イエス‐ン エピステウスメン εις Χριστον Іησουν επιστευσαμεν」なんですね。「ハリストン イエス‐ン Χριστον Іησουν 」は、「ハリスト イエス―」の対格で、それは、「~の中へ」を意味する前置詞「エイス εις」が対格を採るからです。そして、「エピステウスメン επιστευσαμεν」は、「信頼」とか「真実」とかを意味する名詞「ピスティス πιστις 」の動詞形「ピステウオー πιστευω」の変化した形(第1アオリスト[不定過去] 直説法 一人称複数形で、過去に繰り返し行ったことを示します)です。ここを英語にすれば、「in Christ Jesus we believed」になります。つまり、信じる対象、目的語を示すときには、ギリシャ語でも、英語でも、前置詞を取ることが多いんですね。しかも、これはヘブライ語でも、そうで、たとえば、「創世記」第15章6節は、前置詞があって、逐語訳では「アブラムは主の中で自分を確かにさせた(信頼した)」という意味になる、と雨宮慧先生から教わりました。この「の中で」がヘブライ語の前置詞に相当する訳語です。

 ガラテヤ書第2章16節は、「キリストのまこと」と「イエス・キリストを信じました」を、前置詞のあるなしで、区別したと考えられます。そうすると、このガラテャ書第2章16節は、私どもが信頼したのは(自分を確かにさせた)のは、フィリピ第2章6節~8節「6彼は神の形にいましつつも、神とならぶことに捕われず、7おのれをむなしゅうして僕の形をとり、人の姿になり、様子は人のようでした。8彼はおのれを低くして死に至るまで、然り十字架の死に至るまで従順でした」という「キリストのまこと」があるからだ、ということになります。「キリトスのまこと」に感じて、感激して、感動して、涙が出るほど嬉しくて、その結果キリストを信頼するようになった、キリストの中で自分を確かにさせるようになった。自分が信じたから信じたのではない。

 正しい翻訳が、正しい信頼に結びついている、そこんとこに、気が付いていただければ嬉しゅうございますよ。

 

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