エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

絶望のどん底 改訂版

2015-05-25 07:37:14 | アイデンティティの根源

 

 ルターでも、ありのままを認めていただけないと間違っちゃってた。間違ってた時には、深い憎しみを抱いていたと言いますね。ルターでもそうなんですから、間違いちゃうと深い憎しみを抱いたって仕方がないですね。今の日本は、この手の間違いだらけですから、この手の深い憎しみだらけになっている、というわけですね。

 Young Man Luther 『青年ルター』p202の下から4行目途中から。

 

 

 

 

 

思い出していただきたいことは、ルターが初めてミサをした時の、マルティンのtentatio 苦闘についてシェールが言っていたことです。すなわち、マルティンは、キリストは神様と人の仲を取り持つ役回りだという、ホッとできる聖句が分からずにいたこと、そして、ルターは絶望のどん底を味わう方を選んだ、ということです。「それは、ルターには本物の信頼がちっともなかったから、すなわち、根源的信頼感が脆かったからです」。

 

 

 

 

 

 根源的信頼感が脆いと、絶望のどん底を味わうことになります。しかし、それは、そのどん底を通して、根源的信頼感を豊かにする道も備えられているんですね。それが不思議でなりませんね。

 

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魂の中核

2015-05-25 06:51:37 | エリクソンの発達臨床心理

 

 人は1才を過ぎたあたりから、あるいは3才、4才になってからの人もいますが、1人立つことを学ぶと、視界は360度効きませんから、前や後ろなど、いろいろな位置関係ができますでしょ。それは眼に見える部分の話だけではなくてね、心の時空、と言う眼には見えない部分でも、そういうことができます。つまり、心にも時空がある、時空がない心は心じゃぁない、ということですね。不思議でしょ。

 The life cycle cpmpleted 『人生の巡り合わせ、完成版』、p42の6行目途中から。

 

 

 

 

 

 ウンチやオシッコを出すやり方は、一般的に出したり引っこめたりする仕方と見なすことができるかもしれませんよね。もちろん、身体の使い方と姿勢の変化からくる様々な見通しには、他にも非常に多くの大事な組み合わせがあります。それについては、読者諸兄姉が研究してくださることに委ねたい感じです。読者諸兄姉は、すでにお気づきでしょう、この間、私がこの段落で書いてきたことと言えば、≪私≫を経験するという観点で物を書いてきたのです。そして、実際に、経験的に言っても、言葉に関する点でも、自分を確かにさせることを知る、あらゆる発達段階が価値あると認めることは、(無意識を含む)自我のみならず、自覚的な≪私≫を、自意識の確かな中心にすることです。この自我と≪私≫という1つの組み合わせが、私どもの魂の中核になるのですが、それは、呼吸をすることが、身体が生きていくうえで中核になるのと同じことです。

 

 

 

 

 

 エリクソンも、加藤周一さんと同じくらいに、頭がクリアーですね。本当に難しいことを、私ども凡庸な者にも分かるように、かみ砕いて教えて下さいます。本当に素晴らしい。

 心の中の時空は、まさに自覚的な≪私≫そのものなんですね。これも不思議ですね。

 

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山下義隆さんの生きる技法 改訂版

2015-05-25 05:50:16 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 
今の日本の社会にウソとゴマカシが多いのは、親子関係で・・・
    権力者のウソ ウソとフリが、マックス・ウェーバーの「精神なき専門人、心情なき享楽人」を彷彿...
 

 山本義隆さん。団塊の世代の人には、忘れられない人でしょう。しかし、それ以降の人は、あまり知らないかもわかりません。今日の朝日新聞の書評欄に、山本義隆さんの著書『原子・原子核・原子力』の書評がありました。小さな記事ですから、見逃した方もいるでしょう。

 私も、一度だけ、ちらっと見かけたことがあります。それは今から17年前、立川でした。その日は、私の信仰の恩師、西村秀夫先生の奥さんの董子さんを「送る会」、つまり、告別式が立川でありました。そこに山本義隆さんもやってきたんですね。

 董子さんは、元小学校の先生。「聖書を学ぶ会」で讃美歌を歌うときには、主旋律ではなくて、いつも副旋律を歌って、ハーモニーをつける人でした。でも、西村先生が「理想的」な話をするときには、董子さんは、「理想」通りにはいかない西村先生をユーマラスに語るような人でしたね。

 その董子さん、1969年東大安田講堂がバリケード封鎖されている時に、「学生の話を聴きたい」ということで、バリケードの中に入り、学生の話を聴いてきたと、西村先生が「聖書を学ぶ会」の中で紹介してくれました。そして、バリケードから出て来た時には、「今までとは、景色が違って見えた」、董子さんはそう語っていた、と西村先生が付け加えました。その時に、董子さんをバリケードの中に案内し、話をした一人が、東大全共闘議長だった、山本義隆さん。

 山本義隆さんは、東大で素粒子を学び、将来を嘱望されていたらしい。しかし、その後は駿台予備学校で物理学の専任講師をしたそうです。早稲田で学生運動をしていた阿木幸男さんは、「まともな就職はできない」から、「河合塾で教えることになった」と言っていました。事情は似ていたのかもしれません。私も駿台にはずいぶん厄介になりしたが、文系でしたから、そこではニアミス。しかし、話によれば、大学で物理学を講じるように言ってくれた人がいたとか。しかし、山本義隆さんはそれを潔しとはしなかったらしい。その後山本義隆さんは、予備校講師をしながら、『磁力と重力の発見』全3巻、おそらく、後世に残る本でしょう、を書き上げた。その書評を、やはり朝日新聞で読んで、友人のツテで大学図書館から本を借り、研究室もなしに研究をコツコツと続けられた、と知りました。その執念とも、信念とも、言える生きる技法に、頭が下がる思いがしましたね。

 政府広報になっている、原子力村の御用学者とは対極的な生き方をしてきた山本義隆さん。「浴びる放射性がこれよりも少なければ安全である、という意味の『閾値』は存在しない」と、放射線は少し浴びただけでも危険なものであることを、ハッキリと、パレーシアに言っている由。

 私どもも、山本義隆さんのような生きる技法から学ぶ者でありたいですね。

 

 

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