エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

努力に努力を重ねた果てにあるもの

2015-05-20 07:01:43 | エリクソンの発達臨床心理

 

 「天にも昇る悦び」から生まれる学問・真理だけが本物の学問・真理で、それ以外はゴミです。現在の日本の大学(院)は、相当「環境意識」が高いのでしょう、本物の学問・真理以外の、そのゴミ集めに熱心ですね。

 Young Man Luther 『青年ルター』p201の第4パラグラフから。

 

 

 

 

 

 フーゲルザンクの研究が優れているのは、ルターが書いた文書から、雑草を取り除いたからです。ルターが書いた文書には、実際には、ルター以前の学者の引用があります。すなわち、フーゲルザンクはルターが辿った道筋と、ルターがもともと言ったことの強調点を、覆うものを取り除いたんですね。さらには、フーゲルザンクは、ルターが書いた文書の、ふつうは否定されてきた次元、すなわち、記念碑的なワイマール版では、見失っている次元に光を当てました。

 

 

 

 

 

 5月17日のYoung Man Luther 『青年ルター』の翻訳で、「ルターが「ローマの信徒への手紙」第1章17節を頭の中で想いを巡らせていた時に、その最後の文の言わんとすることが不意にハッキリしてきました。それが分かったおかげで、ルターは胸に迫るものがあり、自分に「天国の扉が開かれた」と感じました。「というのも、神様が下さる施しと優しさは、あらゆる真の関係に示されるから。『義人は、キリストのまことによって生きる』と書いてあるように、ね」(「ローマの信徒への手紙」第1章17節)」としましたよね。フーゲルザンクが、指摘している点も、(翻訳では、明日以降になりますけれども)、この「天にも昇る悦び」に関わるものになるはずです。

 人間は自分の努力に努力を果たした末に、ご褒美をもらいたいものなんですね。しかし、それだと、「天にも昇る悦び」は手に入れられない。不思議でしょ。その努力の末に、それでは「もう、ダメダァ」と気付いた後にしか、「天にも昇る悦び」は手に入れられません。不思議でしょ。

 

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希望を毎日味わいたい人は、是非是非。

2015-05-20 06:57:03 | エリクソンの発達臨床心理

 

 身近な関係が一番なのですから、お母さんは赤ちゃんが生まれたら、1歳半までは仕事を休んで、赤ちゃんのそばにいるのが、お母さんの責任です。お母さんが、赤ちゃんのそばに1歳半まで安心していられるようにするのが、お父さんと社会の責任です。

 The life cycle cpmpleted 『人生の巡り合わせ、完成版』、p41の2行目途中から。

 

 

 

 

 

聖パウロが(「コリントの信徒への第1の手紙」第13章12節で)「私どもは『鏡に映ったおぼろ』の向こうを見通して、分かるようになるでしょう、『顔』と『顔』を見合わせて、見るようになるでしょう」と約束しているように、死と診断されたところから復活したと思われる、いろんな人々が経験したことを報告した、その報告を見れば、このような究極的な出会いが、「顔」と「顔」を見合わせてみるヴィジョンであることが、確かなことと分かりますね。

 

 

 

 

 「コリントの信徒への第1の手紙」第13章12節の記述は、「宗教」が語る夢物語、マユツバである、と見る人も少なくありませんもんね。そう考える自由は確かにあります。ところが、エリクソンがここで記しているように、臨死体験をしてきた人は、花園や光の中で、自分が完全に肯定される圧倒的な悦び、を体験した、と繰り返し報告してますでしょ。最近再放送された、臨死体験レポートを、立花隆さんが解説していた番組でも、臨死体験をした人が異口同音に、その「天にも昇る悦び」の体験を語っていましたよね。ですから、「コリントの信徒への第1の手紙」第13章12節の記述は極めてリアリティのあるものです。

 さらには、そのリアリティは、臨死体験を体験した人の専売特許でもない、のです。そして、このリアリティを味わった者は、この「コリントの信徒への第1の手紙」の次の聖句第13章13節「信頼と、希望と、関係に対する誠実さとは、いつまでも、いつでもどこにでもありつづける」ということを生活の中で日々味わることができるのですね。面白いでしょ。

 

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#現代の「#礼拝」

2015-05-20 02:10:07 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 
「くれない族」、あるいは、≪与える恵み≫
  「真」はイキイキ、ピチピチ生きること。「真」は、自由であって初めて、人の幸せを作り出す力になるようですね。今日は、p21のL4から。 他人にことは...
 

 先日、正しい翻訳が、正しい信頼、正しい学問になる 5訂版2015-05-12 07:51:13 | エリクソンの発達臨床心理 で取り上げた、エーリッヒ・フロムの『関係に誠実である能力』の翻訳が上掲のブログでした。

 「天にも昇る悦び」から生まれる学問・真理が本物の学問・真理であって、それ以外はゴミです、と昨日当ブログで申し上げました。過激でしたか? でも、真実とは、得てして過激なものですね。

 「天にも昇る悦び」は、フロムが言う、「真の関係」の中で、「イキイキ、ピチピチと生きる」中から生まれるものであって、「仕方がないのでいやいややらされる気持ち」で暮らしていても、決して生まれませんものね。「仕方がないのでいやいややらされる気持ち」で暮らしている暮らしから生まれるものと言ったら、愚痴くらいでしょう。あなたはどうですか?

 この「天にも昇る悦び」こそが、現代の「礼拝」の目印、メルクマール Merkmalなんですね。礼拝と言うと、仏教では「らいはい」と読み、キリスト教では「れいはい」と読ませていることですが、いずれもお堅い感じ、堅苦しさとセットな感じでしょ。形が決まってますから、その形から外れたら「ダメよダメダメ」とダメダシされそうですもんね。でもね、その形も最初は「天にも昇る悦び」を表わすものだったんですよ。「エッッ」って声が聴こえてきそうですが、本当なんですね。最初は、「天にも昇る悦び」を表わした形も、それが、何十回も、何百回も、何千回も、何万回も…(最近、しつこくでゴメンね)繰り返されるうちに、最初の「天にも昇る悦び」が忘れられちゃうんですね。それが習慣の恐ろしいところ。だんだん、「形」ばかりを無思考、無感覚でやるようになるんですね。それが「習慣」の持つ「自動操縦」の一面です。

 それと真逆なのは、「自動操縦」と真逆なのが、「真の関係」です。催眠術師じゃない方のエリクソンも、立川のデパートでもない方のフロムも言っている「真の関係」ですね。この「真の関係」、「真の関係」から生まれた「天にも昇る悦び」こそが、現代の「礼拝」です。その現代の「礼拝」は自由形式なんですね。でもいったん決まった自由形式は、決まった形をとりつつ、少しずつ変えていくとベターでしょうね。

 その「真の関係」を紹介したかこのブログを再掲しておきますね。

 

 

 

 

 “「神の愉快なパルティザン」。こう言っても、分かる人が少ないかも分かりません。「神の愉快なパルティザン」とは、二十世紀最大の神学者、カール・バルトのニックネーム。

 宮田光雄先生の著作に、『キリスト教と笑い』というタイトルの岩波新書があります。その「あとがき」に宮田先生が、西ドイツに留学中、バーゼル大学を訪ねて、カール・バルトの講義に出席した件が出てまいります。カール・バルトはそのとき、「終末論」を扱っていましたから、非常に深刻なテーマを扱っていたことになります。ところが、教室中、バルトが飛ばずユーモアで笑いが絶えず巻き上がる感じだったといいます。たとえて言えば、人気の漫才師の芸を楽しむ会場なのでしょう。次から次へと、笑いが続いていく感じ。深刻なテーマを話しているバルトの講義が、笑いの連続だった。不思議な感じがしませんか?

 現代の礼拝について、それは楽しく陽気なもので、悦びにあふれている、と私は申し上げてきました。それはバルトの系譜であり、宮田光雄先生の系譜です。私ども一人びとりが、「神の愉快なパルティザン」になって、現代日本と言う「死に至る病」に侵されている状況を、根源的に回復させるために、≪いまここ≫を楽しく陽気に、しかも悦びに満ちて生きるのです。それが、日本の「死に至る病」のために苦戦している子どもたちが、回復していくためには、なくてはならない先兵なんですね。

 「神の愉快なパルティザン」。「人間みな兄弟」と「みんな違って、みんないい」をマジで生活に取り入れて、人々と関わるときに生かして生きる。自分の頭で考えることを基本にして、話し合いを大事にしながら、組織の中で、ドッコイ生きる。必要な時には、ハッキリ物を言う勇気を身につけている。他者感覚を日々磨いているので、弱い立場の人の「声にならない声」にも敏感で、その代弁をしたり、その本人が声に出せるように支援したり。

   サウイフモノニ ワタシハナリタイ ”

 

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