エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

≪#私≫の #土台 にあるのは、#ヌミノース

2015-06-07 13:46:42 | エリクソンの発達臨床心理

 

 心からの悦びとキラキラした瞳ほど、素敵なものはありません

 嘲りと堅苦しい眉間のシワほど、いやなものはありません。

 The life cycle cpmpleted 『聖書の神様の命が一巡、できた!』、p45の下から11行目途中から。

 

 

 

 

 

私が申し上げていることは、「私」と「あなた」という今申し上げた対になった人たちが、赤ちゃんの頃に、それとはハッキリと分からないままに、お互いを大切にし合うことは、私どもがヌミノースの呼んでいる、いつでもどこでも、気高さを感じる性質にとって、人間が毎日礼拝する上でも、倫理の面から言っても、なくてはならない土台になる、ということです。このヌミノースとは、人智を超えた存在が放つ光です。ヌミノースを感じると私どもは、「離れていても繋がりを感じます」し、「違っていても、大切にされている」から、これこそが、≪私が生きている実感≫を生きる心の習慣の土台、根源になります。

 

 

 

 

 

 ≪私≫の土台には、ヌミノースが必ずあります。

 それは、「離れていても、大事な人や神様との繋がり、絆を感じます」。ですから、大事な人と、いつも一緒にいるわけではなくても、つながり、絆を感じ続けることができます。もう、孤独ではなくなりますね。

 それと同時に、「違っていても、心から大切にして頂いている」。ですから、強い者、多数派に同調して、形ばかり同じにならずとも、自分が値打ちもの、宝物と自ら認めることができます。強い者、多数派から認めてもらう必要がないのですからね。ですから、他者に対しても、同様に,心から大切にできるようになりますね。

 ヌミノースが≪私≫の土台にありますとね、その人は、基本が、心からの悦び、になりますし、弱い立場の人、強い者や多数派から疎ましく思われている人も、大切にすることが、毎日の基本になります。面白いでしょ。

 

 

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場所問題の不思議 呪いの源が恵みの源に繋がる不思議

2015-06-07 08:36:00 | アイデンティティの根源

 

 ルターが回心したのは、神様と出会ったのは、トイレだった。それがとっても大事なことですよね。

 Young Man Luther 『青年ルター』p204の第5パラグラフから。

 

 

 

 

 

 しかしです。この場所問題はすべて、ことさらに触れておくことが必要なことなんですね。というのも、どこで事が起こったのかという場所の問題は、ある種の心の病と関係があるからなんですね。まず第一に、人がどこで事が起こったのかと言う、場所の問題は、特定の身体のニーズを満たすのに役立ちます。その体のニーズは、場所が上手に働いている間は、その場所が、気持ちと関係していることが分からなくなります。しかし、かの精神科医みずからが指摘しているのは、ルターは、生涯を通して、便秘と閉尿、オシッコが出たいと感じるのに、実際にはなかなかオシッコができないこと、に苦しみ続けた、ということです。

 

 

 

 

 便秘や、オシッコが出たいのに、実際には出ない尿閉で苦しんだルター。なかなか出せないのは、ウンチとオシッコだけじゃぁなかったんですね。人間が内側から出すもので、ウンチとオシッコと同じくらい大事なのは、気持ちです。その気持ちをガマンすること、我慢していることも気づかないでいることが、心の病の共通する特色です。ルターは、このガマンの質であったことが、呪いの源になったわけですね。それがまた、恵みに繋がっている不思議です。

 

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教育は、教え、教えられること

2015-06-07 06:08:21 | エリクソンの発達臨床心理

 

 学校では、「先生」と「生徒」がいます。そこに入っている大人は「先生」と呼ばれます。「遊びのオジサン」である私は、「先生」と呼ばれることを避けたい気持ちでいっぱいです。「先生」と呼ばれる存在になった瞬間、子どもとの関係が歪められる、と感じているからです。何故なんでしょうか?

 今どきの日本の学校は、とっても忙しい。私どもの時は、土曜日も4時間授業でした。単純に考えても、いまは、土曜日の4時間分を月~金の5日間に割り振っていますから、私の頃に比べて、今の子どもは、月~金は一時間多くの授業をすることになります。忙しい。

 さらには、教員。私が定期的に行っている1つの小学校の教員は、話を聴けば、22時くらいまで居残っている教員が何人にもいるそうです。特に小学校の教員は、中学以降の教員と違って、授業を持たないブランクがほぼない。授業が終わっても、行事準備、生徒指導、授業の準備など、様々な仕事があります。一番私が「教員は忙しいのね」と感じるのは、業間休みや昼休みに、子どもたちと遊んでいる教員が、ほぼ一人もいない小学校がほとんどだ、ということ。教員は実にい忙しい。当ブログでも忙しい = 「あんたにはそんなに価値がないのよ」で書きましたように、子どもの≪遊び相手≫をしないことは、子どもを否定することに、日々繋がってしまいますが、そういうこともお気づきでないことが非常に多い。

 教育は、エデュカティオ、「引き出すこと」。子どものポテンシャル、大人のポテンシャルを引き出すこと、お互いに引き出しあうことです。平たく言えば、≪やり取りをすること≫ エリクソンが好きな言葉で言えば、ミューチャリティmutuality 相互性があることです。教え教えられる関係があって初めて、「教育」と呼べます。

 しかし、忙しくて、大人が「先生」と呼ばれる学校は、その「やり取り」、「教え教えられる関係」を止めている場合が実に多い。その学校が「〇〇市立◇◇小学校」と呼ばれていても、もう「学校」ではありませんし、教育をするところでもありません。そこのあるのは、≪やり取り≫ではなくて、「一方通行」であり、教育ではなくて、「調教」でしかないからです。

 教育は引き出すことで、学校はラテン語でスコレ、「暇」ですから、「遊び」が基本です。陽気で楽しい雰囲気の中で、やり取りしながら、面白く楽しいことを学び合う場です。ですから、私は、「遊びのオジサン」として、あくまでも、子どもたちと愚直なまでに≪やり取り≫をしながら、教え教えられる本物の臨床教育をやりたい、と思う毎日です。

 

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