エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

自由にされること ルターの場合

2015-06-10 08:07:18 | アイデンティティの根源

 

 精霊は場所を選びません。

 Young Man Luther 『青年ルター』p205の第2パラグラフ7行目途中から。

 

 

 

 

 

ルターが実際には、机とは別の場所に座っていたとルターが言ったことが意味することは、この創造的な瞬間に、昼夜の瞑想の時の緊張が、ルターの全存在を通して、解き放たれた、ということです。ルターの個人的な言葉を読んだ人は誰も疑えなかったことですが、ルターは全存在はいつでも、自分のハラワタも含んでいた、ということです。さらには、当時の人たちは、今私どもが、大事な体の働きについて気持ちを表わす(気持ちに表わす)よりも、はるかにあけっぴろげに口にもし、また同時に、具体的に言葉にもしていたのですね。

 

 

 

 

 

 ルターは別にトイレで回心したことを隠したりはしません。それを隠したいのはね、ルターを権威づけて利用したい人たちでしょう。ルターは正直で、率直だったはずですね。

 回心は、それまで縮こまっていた、心も、身体も、魂までもが、自由にされることですから、便秘や閉尿もすっかり良くなったでしょうね。

 

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礼拝は民主主義に似ている

2015-06-10 07:01:16 | エリクソンの発達臨床心理

 

 ヌミノースは深い。

 The life cycle cpmpleted 『人生の巡り合わせ、完成版』、p46の第2パラグラフから。

 

 

 

 

 

 ところが、あらゆる根源的な礼拝が、形ばかりの礼拝とも関係していることも事実なんですね。礼拝とは似て非なる、形ばかりの礼拝は、決まったことの繰り返しと人を惑わす見せ掛けが特色のパターンとなって、人と人を結びつけるという一致の価値を失ってしまいます。このようにして、ある条件下では、ヌミノースを求める気持ちは、簡単に偶像崇拝に成り下がる危険があります。偶像崇拝とは、実際は、一番危険な、共同幻想になっちゃうものですね。

 

 

 

 

 いのち、と等価なヌミノースは、本物の礼拝によって、感じ取ることができます。しかし、その本物の礼拝とは、似て非なる形ばかりの礼拝では、最も危険な共同幻想ともなり、あらゆるケダモノを人にもたらします。

 いつでも、その礼拝の中に、礼拝を作る精神、礼拝を通して命を下さる精神、ガイスト、聖霊の働きを感じる眼と心を持っていないと、簡単に形式に流れて、ケダモノの餌食になるのが、人の歴史の常です。

 礼拝と民主主義は似ている。

 

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#ヌミノースのはじめ #一致のはじめ

2015-06-10 02:55:12 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 
魂に根差す謙遜
  心理学も突き詰めれば、≪真の関係≫になる。心理学を専門に研究している人は、認めないかもしれませんが、臨床では、当然です。p30第三パラグラフ。&a...
 

 いま、エリクソンがThe life cycle cpmpleted 『人生の巡り合わせ、完成版』で、ヌミノースのことを教えてくれますでしょ。1人の≪私≫が、集団のメンバーの≪私≫達と一致し、さらに神様の≪私≫と一致する時、ヌミノースを感じて、天にも昇るほどの、跳び上がるほどの、心の底からの、悦びを感じる、と言うお話、事実ですね。その時に、ヤハウェと言う神様の名前が、「わたしはある」、あるいは、「私は、いまここにいる」という名前だと言われます。新約聖書では、ホー・ウォン  ο ων、気息記号などを付けると文字化けしますから、省力していますけれども、英語のoとwvに、似ているけれども、最初の οは、オミクロン 小さなオー 短母音のオーですしωは、オメガ、大きなオー 長母音のオーで、νは、ブイではなくて、ニューといって、英語ではNに相当する文字です。 

 釜ヶ崎で福音を生きている神父、本田哲郎神父。その徹底した生き方に、マザーテレサとも相通じる潔さ、信頼を感じます。本田哲郎神父が訳した福音書『小さくされた人々のための福音 四福音書および使徒言行録』(新世社)は、山浦玄嗣さんが翻訳した四福音書『ケセン語新約聖書』(イー・ピックス[大船戸印刷書])とはまた違った魅力を感じますね。

 その本田哲郎神父の本に『釜ヶ崎と福音 神は貧しく小さくされた者と共に』(岩波書店)があります。そして、その一節 p.122には、神のお名前「私はある」が出てきます。本田神父によれば、この「私はある」は、もともと、ヘブライ語の「エヒエー エシャル エヒエー」、意味は「私はある 私はあるというものだ」という意味だと言います(『出エジプト』第3章12節)。それは、「共にいる」という神の本質を示すお名前のようですね。驚き感激するヌミノースは、集団が≪私≫と共にいるばかりではなくて、神様が≪私≫と共にいて下さることからこそ、感じられるものでしょ。

 本田神父によると、この「共にいる」ということは、「共に働く」ということだというんですね。私は「共に働く」と言われたら、「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益としてくださる」(『ローマ人の信徒への手紙』第8章28節)の聖句と、この聖句から自分たちの共同体を「共働学舎」と名付けた、宮嶋眞一郎先生のことを思い出さずにはいられません。父親が自死したとき、自宅に呼んでくださり、共に祈ってくださいました。心細い思いが、どれだけ力づけられたか、昨日のことに様に思い出すからかもしれません。

 神様は誰と共に働くのか? それは「ご計画に従って召された者たち」と、だけれども、それは、「貧しく小さくされた者」とするのが本田神父の素晴らしさでしょう。本田神父は、「貧しく小さくされた者」がヌミノースを実感することを通して、驚き感激するヌミノースが広がることを、肌身に染みてご存知であるから、に違いありません。驚き感激するヌミノースの特色は「一致の悦び」でしょ。この「一致」は、「貧しく小さくされた者」からこそ始まるものなのです。

 「貧しく小さくされた者」は釜ヶ崎に暮らす人であり、私の立場から申しあげれば、親に相手にされてこなかった「子ども」です。

 May 11, 2020加筆

 

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