エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

真面目なのに、陽気で楽しい

2015-06-04 10:08:20 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 
他の人を自分の思い通りにする悪魔
  相手のことを知り尽くすことなどできないからこそ、人に対して寛容にならざるを得ませんし、人を知る際に、謙虚な心にならざるを得ないません。今日は、p28冒...
 

 

 エリクソンの記述は、非常に凝縮しています。 それは、その背景にある体験を繰り返し体験し、体験しただけではなく、それを繰り返し言語化し、言語化しただけでなく、その言語と体験(話し言葉と出来事)の一致具合を繰り返し検証したからに他なりません。ですから、エリクソンの記述、言葉は、体験(出来事)とピッタリとした、ウソとゴマカシのない言葉です。しかも短い。体験、その臨床がある人であれば、ツーカーなのですが、その体験、その臨床がない人には、なかなか理解できない場合もありますね。エリクソンの著作の、日本語翻訳が、誤訳の塊であるのは、この体験、この臨床(と言っても、必ずしも心理臨床に限りません。大江健三郎さんのエリクソン理解が深い様に、それは狭い「専門」を遥かに超えた、人間に対する洞察に繋がる体験、と言った方がより正確だと私は考えます)がないからです。

 でも、小難しいことを言いたくて、今ブログを書いてるんじゃぁない。もっと素朴なことを具体的に描きたいと思ったんですね。それは、臨床にある二律背反に関することです。このエリクソンの記述が、非常に凝縮していますから、イメージが湧かない人もいるだろうと考えたんですね。1つ具体例を挙げるとイメージが湧くんじゃないかと。

 いま、10人強の子どもたちとコラージュ療法をしていますが、その中の2年生が、抜群の集中力を発揮してんですね。これは、数十人から100人に1人くらいの子どもが示す集中力です。私は、これまで数名しか経験がありません。その子は、授業に集中できないし、言うことを聞かない、と言われている子どもです。

 その子は、キラキラした眼で、コラージュをします。一心不乱にアイテム(気に入った写真や絵)を図鑑などの本の中に探します。それは、一流の研究者が、資料を読み込んでいる眼と同じです。アイテムを見つけて切り出すと、裏に糊付けして、台紙に貼ります。その手際の良さは、一流の職人と同じです。そして、コラージュが完成すると、タイトルをつけ、コラージュの物語を話してくれます。そして、〈全体は?〉と私は問います。「スッキリした」。そう答える場合が多いです。

 コラージュ療法は形が決まってます。枠からはみ出ることもできません。この子も、その形と枠に従って、真面目にコラージュ療法をしています。しかし、この子は、いつも目をキラキラされてくれます。別に僕のためじゃないけれどね。自分の言葉にならない気持ちが「スッキリ」するほど出せているからに違いありません。

 そう、真面目なのに、陽気で楽しい、がいつもあり、繰り返し馴染んでいるのに、いつも、ビックリするほど上手に自分が表現できたという驚き、がある。

 不思議でしょ。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

悪い良心、恐るべし

2015-06-04 07:14:51 | アイデンティティの根源

 

 ルターの回心は、断続的なものにも見えます。

 Young Man Luther 『青年ルター』p204の第4パラグラフから。

 

 

 

 

 

 特定の事件が、ルターの気持ちの中では、上記の深く落ち込んでいた時期と関連しているようにもみえます。この間にルターは自分が若死にするものだと見ていたみたい。報告されたエピソードが偏見を持って見られたのは、その事件が起きた場所のせいでした。ルターは、Secretus locus monachorum, hypocaustum あるいは、cloaca、すなわち、修道士の秘密の場所、サウナ室、それから、トイレのことに触れています。

 

 

 

 

 ルターは、悪い良心の故に、気持ちや意見やウンチを我慢する質でした。ですから、トイレが大事になります。悪い良心恐るべし。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日常と専門用語

2015-06-04 06:35:16 | エリクソンの発達臨床心理

 本物の臨床は、形が決まっているのに、とっても陽気で楽しいものです。あそびですからね。

 The life cycle cpmpleted 『人生の巡り合わせ、完成版』、p44の下から7行目から。

 

 

 

 

 

しかし、こういったことが、日頃の言い方で「相手」との関係と呼ばれるように(不幸なことに)なるものを永続的な作り上げるのに役立ちます。不幸なことですが、それは、ここで、リビドー理論(大事な人がリビドーの「相手」だから)の一部として、内側にあるものにとって大事な意味のある専門用語は、「公言されていない」結果をたらしました(エリクソン 1978)。一番情熱的に好きな相手が、1人の「相手」と呼ばれ、この間違った名称が、「相手」ということばを「現実にあるもの」の世界から取り去っています。

 

 

 

 

 専門用語は、得てして、間違っています。ですから、このブログはなるべく日常的に使っている言葉を、意識的に用いるようにしてます。

  

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

藤原保信先生の『自由主義の再検討』から

2015-06-04 02:18:14 | エリクソンの発達臨床心理

 

 藤原保信先生が亡くなって、21年。藤原保信先生は安曇野出身ですから、ゼミ合宿では、マイクロバスに揺られて、安曇野に行き、ワサビ田で、ワサビ入りのソフトクリームを食べたりもしましたね。日航ジャンボが御巣鷹山に落ちた夏、韓国の雪岳山(そらくさん)と智異山(ちりさん)にワンダーフォーゲルに行った後だと思います。

 その藤原保信先生の本に、岩波新書(293)の『自由主義の再検討』(1993,8)があります。すでに社会人でしたが、本屋に行って(まだAmazonがなかった)、買って、いそいそと呼んだ記憶があります。そのなかには、「白熱授業」で有名になった、サンデル教授の主張も重要なものとして出てきます。先生は、この本を書いて間もなく、ガンのために亡くなりました(1994,6)。この本は先生のご遺言だと私は考えています。

 小泉政権(2001年~2006年)の「聖域なき構造改革」以来、日本も様々な自由化がありました。それはひどいものでしたね。特に、ハケン、派遣労働を増やしたので、それまでも褒められたものでなかった労働政策が、小泉政権以来、滅茶苦茶になっている、と私は見ます。この自由化を支えた考え方が、自由主義、リベラリズム、とくに、経済自由主義 エコノミック・リベラリズムでしょう。

 これを批判したのが、サンデル教授や藤原保信先生ら共同体主義者 コミュニタリアニスト達であり、その考え方である共同体主義、コミュニタリアニズムです。藤原保信先生の『自由主義の再検討』の最終章も「コミュニタリアニズムにむけて」です。

 私は、今も生きるコミュニタリアニズムの考え方に、人間に対する見方があると思います。それは、人間は自己解釈的で物語的(ナラティヴな)存在であり、それは対話を繰り返すことを通して行われる、ということです。そして、今私が心理臨床を通して、子どもとその周りにいる大人を支援することは、子どもが、自分の辛い体験も、箱庭やコラージュなどを用いて「自分の物語」を育みつつ、肯定的に位置づけることを、お手伝いすることです。政治思想史から心理臨床へと、専門領域こそ変わりましたが、藤原保信先生から教えていただいたことを、今日も生かしていきたいと、思っております。

 藤原保信先生、ありがとうございます。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする