エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

トイレの面接室

2015-06-05 07:52:21 | アイデンティティの根源

 

 悪い良心、恐るべし。

 Young Man Luther 『青年ルター』p204の第4パラグラフ6行目途中から。

 

 

 

 

 

シェールによれば、この資料はもともと、1532年の『卓上談話』の写本に遡ります。1532年は、ルターが言ったと言われているのは、「Dise Kunst hatt mir der Spritus Scanctus auff diss Cl. 聖霊が私に下さったのが、まさにClでもらった、このやり方です」なんですね。ローラーは、非常に批判的なシェールが、1番信頼した最初の写本作者ですが、このClは、cloacaトイレだと写本に残しています。

 

 

 

 

 

 ルターが回心した場所は、トイレだった。ルターを権威づけたい人にとっては、あまりありがたくないエピソードですね。でもね、聖霊は、場所を選ばないのでしょう。

 精神分析的には、興味深い。トイレは「出す」場所だから。面接室も「出す」という意味では、トイレと同じです。面白いでしょ。

 

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エリクソンが診た愛着障害

2015-06-05 07:37:27 | エリクソンの発達臨床心理

 

 政治屋的専門用語、ウソとゴマカシの塊の、あるいは、単なるおバカなアベシンちゃんの言葉遣いが、巷に溢れています。間違いだらけの言葉遣い。アベシンちゃんの国語は「1」だったことだけは間違いないでしょう。

 The life cycle cpmpleted 『人生の巡り合わせ、完成版』、p45の下から1行目途中から。

 

 

 

 

 

「現実にあるもの」の世界とは、子どもが見つけ出さなくてはならない世界ですが、それは、その子ならではであって、大切な、認知的であるばかりではなく、情緒的な関心事です。ともかく、この世界の心理性的な側面を補うのが、1人の大事な「相手」、すなわち、1人のお母さんという存在に出会うことができる、心理社会的な力と、自分が、そのお母さんからみたら、1個の別の個人だということが分かる、心理社会的な力でもあります。同時に、「現実にあるもの」の世界は、赤ちゃんの激しい怒りと不安に出合います。その赤ちゃんの激しい怒りと不安は、動物の赤ちゃんの混乱と恐怖よりはるかに、複雑で運命的のように思われます。赤ちゃんが1人のお母さんとの愛着が損なわれると、極端な場合は、赤ちゃんが「自閉症」の子どもだと分かりますし、赤ちゃんが「自閉症」であることは、お母さんがある種の回避性神経症であることに対応、ないしは、関係しているのかもしれません。もしそうならば、私どもは、やり取りが貧しいことは、一種のプライベートな、すなわち、「なにかが足りない」「欠陥のある」形ばかりのやり方(儀式主義)だということが、診て分かります。それは、眼と眼が交わることがないし、顔と顔が気持ちを交わすこともしないことに特色付けられますし、その子どもには、いつまでたってもなくならないし、希望のかけらもない、決まりきった身振りが診て取れます。

 

 

 

 

 エリクソンは、赤ちゃんが自分のお母さんとやり取りがないと、どういうことになるのか、それはなぜそうなるのかを、見事に記したところでしょ。「自閉症」と「」で書いてあるのは、いまでは、愛着障害と明確に言った方が良いところでしょう。エリクソンも同じユダヤ人として、ハンナ・アーレントを読んでます。実際に何度も引用してますしね。ここのプライベートの用法も、ハンナ・アーレントから借用したものでしょう。鋭いですね。プライベートprivateは、人がデブライブされた deprived 何かを奪われている 状況と見ていたみたい。

 面白いでしょ。藤原保信先生の『自由主義の再検討』p.199

 

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