エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

受け身になることの深い意味

2015-06-21 10:12:30 | アイデンティティの根源

 

 ルターの秘密の場所は、受け身であることことでした。この後は大事なところのオンパレードですので、お楽しみくださいね。ちなみに、中村雄二郎先生の「受苦的存在」も学習しておいてくださると、ありがたいところです。

 Young Man Luther 『青年ルター』p207の第3パラグラフ下から。

 

 

 

 

 

 矛盾していることですが、多くの若者(と石頭の倅)が、その人ならではの領域で偉人になるのは、受け身のなることの深い意味を心から学んだ場合に限られます。受け身であることの深い意味を理解したおかげで、その人は、自分の持ち味の語りかけに耳を傾けることができます。フロイトがフリスに手紙で述べたように、「私が踏み止まらなくてはならないのは、その声が、私の耳に入るほど、私の心を揺さ振るようになるまでなんですね。bis es sich in mir ruehrt und ich davon erfahre.」。受け身のなることは、女性的かもしれませんが、現実には、ルターは、受け身のなることを、女性が身籠るという態度、すなわち、sicut mulier in conceptu であると、ハッキリと口にしていました。

 

 

 

 

 

 ルターは、受け身のなることを、女性が赤ちゃんを身籠ることに似ている、とハッキリと述べています。それは、いのち、赤ちゃんは、外から与えられ、いのちを与えられていることに気付いて、いのちを心の中で育んで、初めて、オギャア、とこの世に誕生する、というわけです。

 

 

 

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子どもの頃の空想で、青年期に騙されないコツ

2015-06-21 05:21:48 | エリクソンの発達臨床心理

 

 エディプス・コンプレックスは、現実には実現不可能な時期で、しかし、その実現を空想できる時期に現れる不思議です。

 The life cycle cpmpleted 『人生の巡り合わせ、完成版』、p49の第2パラグラフ10行目途中から。

 

 

 

 

 

このように、最初の本能のような願いと、それに応じて感じる「僕はダメな子」「私はダメな子」という感じは、一番強烈な子どもの葛藤と、陽気で楽しいことが一番育つこととが結びついている発達の時期に、現れるように仕込まれています。他方、空想的な願いが、「僕はダメな子」「私はダメな子」という感じとともに、どんなに強くなっても、それは、次の「潜伏する」学童期には、水面下に潜るように仕込まれてもいます。その代わり、青年期になって性的成熟が進み、その結果、直接男女の関係を求めるようになると、エディプス・コンプレックスの、異性の親を征服して、同性の親と競争したい、という子どもの時の空想の燃えカスが、理想的な英雄達や指導者達(具体的な地域や競技場をコントロールし、「劇場」や世間もコントロールします)を分かち合う世代が抱く征服と競争に対する気持ちに結びついていきます。こういったことにはすべて、本能のようなエネルギーが伴っていますし、社会秩序が、世代が再生されるときには、その本能的なエネルギーの影響力があるものなのです。

 

 

 

 

 

 ここでは、子どもの頃の征服と競争の気持ちが、若者の征服と競争の気持ちと結びつくときには、「人間を上下2つに分けるウソ」をセンセーショナルに煽る「指導者」、「尖閣を守れ」、「中国が攻めてくるぞ」なんぞという、アベシンちゃんに騙されちゃうと、「朝鮮人は出ていけ~」『中国人は死ねー」などと言うヘイトスピーチにもなり、戦争法案に「賛成」したくなる人も出てくるわけですね。ここのカラクリが分かると、アベシンちゃんと悪魔の仲間たちには、騙されなくなります。

 

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勇気の出所

2015-06-21 05:08:13 | エリクソンの発達臨床心理

 

 私はもともと泣き虫でした。怖がりでもありました。特に暗いところがダメでしたね。オバケが出るかもしれない、と思っていたからです。おばけは実は、自分の心の中にいたんですけどね。

 今日は勇気のことを記したいと思います。泣き虫で怖がりですから、私は勇気がありません。でも、それにもかかわらず、勇気を持ちたいと願って、生きています。ですから、狂気のアベシンちゃんには、ハッキリ「NO」と言いたいし、何度でも「NO」と言います。

 大学でジャーナリズムを講じている友人がいます。その彼が現政権、アベシンちゃんに「NO」と言えない。彼の話を直接聞いたわけじゃぁない。いろんな話を聴いてきましたから、ある種の絶望と不信があるのかもしれないし、もともと「NO」と言いずらい感じがあるのも分かる。でもね、権力を批判しないジャーナリズムは、お米を置いてない「米屋」と同じ。いくら小麦や雑穀を置いて、それが美味しいものであっても、お米を置いてなければ、「米屋」とは呼べないでしょ。権力を批判しないジャーナリズムが、もうジャーナリズムではないことを、当然彼も知っている。それでも「NO」と言いずらい…。

 それで、私も「勇気」のことを改めて考えてみようと思った訳ですね。

 「勇気」と言ったら、Paul Tillich パウル・ティリッヒ の The Courage to Be 『生きる勇気』を思い出します。ティリッヒは、この本の中で、ルターの勇気を取り上げています。ルターは、当時も絶大な権力者であったローマカトリックに「NO」と言った訳ですから、格別な勇気がありましたね。でも、ルターはもともと、それはそれは、激しいくらい厳しい父親に育てられた。ですから、厳しいお父さんに及第点がもらえるか、いつだって、心配だった。じゃぁ、なんでそんな心配症のルターが、あんなに勇気が出たのでしょうか?

 心配性にもかかわらず、「勇気」が出た。ルターはもちろん、神様と出会うことで、心配性にもかかわらず、「勇気」が出たわけですね。でもそれだと、神様に出会えないと、「勇気」が出ないことになっちゃうけど、本当だろうか? 神様はご自分に出会わなければ、勇気をくれないほど、ケチなのか? 神様は、もっと気前が良いはずじゃぁないのかな? 私はそう考える訳ですね。ですから、ご自分に出会わない場合でも、「勇気」をくれるはずじゃぁないのかな。じゃぁ、どうすれば、その「勇気」が出るのか?

 それはね、心配性をさらけ出しても、許される相手を、1人見つけ出すことだ、と私は考えますよ。

 

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