遊びは芸術品
目の前にいると同時に、心の中にもいる子ども 遊びには、一級の芸術を創造す...
「知恵の子」と言われたら、何をイメージするでしょうか?
賢い小学生かなぁ? 「賢い小学生」と言われたら、IQ150以上の小学生を思い出しますね。三桁×三桁の計算をいともたやすく答える。こちらは電卓で、答えを確かめる。「合ってる」。でもその子は「普通学級」ではなくて、「支援学級」でした。前にこのブログでも書いたかなぁ。
でも、この「知恵の子」は、そういう意味ではないらしい。昨日ブログでも引用した、山浦玄嗣さんの『イチジクの木の下で 上』によると、孫引きですが、Understanding the Difficult Words of Jesus: New Insights From a Hebrew Perspectiveの翻訳『イエスはヘブライ語を話したか』によると、これは、「議論の進め方」という意味だと言います。「なるほどなぁ」と思いました。
これは「ルカによる福音書」第7章34節に出てくる言葉なんですね。フランシスコ会訳(カトリックの人たちが翻訳した聖書)では、
「しかし、知恵の正しさは、知恵の子らすべてによって証明される」
と出てきます。
でも、この「知恵の子」は「賢い小学生」のことじゃぁなくて、「議論の進め方」でしたね。ですからこのフランシスコ会訳は、
「しかし、知恵の正しさは、議論の進め方によってわかります」
ということだと、ハッキリ分かりますね。
ここで、私はアベシンちゃんの議論の進め方を思い出したんですね。
昨日の夕方、NHKで国会中継を見たり、また、ウェブ上の国会中継を見ていたんですね。そしたら、アベシンちゃんの話は、何回聞いても、「分かんない」んですよ。よく聴いてるとね、”「俺チャマのやろうとすることに、ツベコベ言うな」ということでしかない”、と、強く感じますね。議論をしているようで、現実には、暇つぶし、「80時間審議時間を取りました」という形を整えるアリバイ作りでしかない、と強く感じます。何故でしょうか?
このヘブライ語から考えた聖書の言葉
「知恵の正しさは、議論の進め方によってわかります」
からすると、アベシンちゃんには、「知恵の正しさ」がないばかりか、あるのは、浅知恵でも猿知恵でもなく、さらには悪知恵ででさえなくて、愚かしさ(国会で証言された、憲法学者の小林節先生のご指摘通り、戦争法案を通せば、莫大な戦費が掛かって、それじゃぁなくても破綻寸前の国家財政が、確実に破たんすることになるでしょう)と狂気だけだぁ、ということが、ハッキリ分かって、スッキリしますね。
https://www.facebook.com/hideki.ishikawa.332/posts/391723644354037?notif_t=like
を参考にして、是が非でも、お腹と頭が弱いアベシンちゃんにお休みを挙げてくださいね。ビョーキですから、お休みしてもらいましょうよ。