エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

ルターは動的受動態

2015-06-27 10:44:52 | アイデンティティの根源

 

 眼のキラキラは、うつります。

 お母さんが気前がいいと、その子どもも気前が良い。

 気前の良さも、うつります。

 大事なところが続きますね。

 Young Man Luther 『青年ルター』p208の第4パラグラフから。

 

 

 

 

 

 ルターはpassiva ラテン語の「受身形」 だとか、passivus ラテン語の「苦しみ」 だとかいう言葉をまさに使ったのが、ルターがラテン語を話す時ですが、このラテン語は、passive 「受け身になること」と翻訳することが、正しいとされているはずです。でもね、ドイツ語では、ルターは、passivisch、すなわち、「動的受動態」という言葉を使うことが多かったんですね。さしずめ、passific(英語にはない言葉を、エリクソンが、英語っぽく作ってみた言葉です) 「受け身になる」のようなものです。passive 受動態と active 能動態の古い文法上の違いは、実際には、erleben 経験することと、handeln 役割を果たすこと の差だと思うんですね。

 

 

 

 

 

 

 ルターの受け身は、単なる受け身ではない。受け身になることを“選択する”ということです。

 これは、心理臨床では、要の態度ですね。

 宗教と心理臨床の近さです。

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遊びが礼拝になる

2015-06-27 10:34:09 | エリクソンの発達臨床心理

 

 生真面目が好きな方には、陽気で楽しくは、不人気かもしれません。でも、陽気で楽しいは、うつるし、子どもを肯定することになるとは、何度でも言いたいことですね。

 The life cycle cpmpleted 『人生の巡り合わせ、完成版』、p51の3行目途中から。

 

 

 

 

 

ここではすぐに、形が決まった遊びという人間が作り出した偉業が、公平なルールと攻撃したい気持ちを組合わせたものですが、登場します。遊びは、ライフサイクルの発達の主たる傾向が、生涯を通して、広がれ、展開する、その仕方の好例なんですね。遊びが礼拝になる力は、モデルになる状況を作り出すことによって経験したことに折り合いをつけて、実験したり計画を立てたりすることによって、目の前の現実をコントロールする、人間の能力の子どもバージョンなんですね。

 

 

 

 

 

 遊びのことを、これだけ要約的に、しかも、非常に実践的に、記した文書を、私は知りません。プラトンの「遊びは飛び跳ねること」、という定義は、詩的な表現として優れています。でも、エリクソンは、それを見事に臨床的に解題してくれている感じです。

 このところは、私が心理臨床の仕事で、毎日毎日、お世話になっているところですね。

 でも、礼拝と言ったら、お寺か教会にいかなくちゃぁ、と思うでしょ。それもいいかもしれません。でもね、無教会でなくても、礼拝にわざわざお寺や教会に行く必要がないんですね。礼拝とは、場所や儀式ではないからですね。本物の礼拝は、人間関係の中で、人間を超えるものに真実に向かい合うこと、すなわち、2人の人が顔を見合わせながら、人間を超える存在、サムシング・グレート something Great を「共に見る」ことだからですね。

 不思議ですね。

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知恵の子

2015-06-27 09:11:24 | エリクソンの発達臨床心理

 

 
遊びは芸術品
   目の前にいると同時に、心の中にもいる子ども  遊びには、一級の芸術を創造す...
 

 「知恵の子」と言われたら、何をイメージするでしょうか? 

 賢い小学生かなぁ? 「賢い小学生」と言われたら、IQ150以上の小学生を思い出しますね。三桁×三桁の計算をいともたやすく答える。こちらは電卓で、答えを確かめる。「合ってる」。でもその子は「普通学級」ではなくて、「支援学級」でした。前にこのブログでも書いたかなぁ。

 でも、この「知恵の子」は、そういう意味ではないらしい。昨日ブログでも引用した、山浦玄嗣さんの『イチジクの木の下で 上』によると、孫引きですが、Understanding the Difficult Words of Jesus: New Insights From a Hebrew Perspectiveの翻訳『イエスはヘブライ語を話したか』によると、これは、「議論の進め方」という意味だと言います。「なるほどなぁ」と思いました。

 これは「ルカによる福音書」第7章34節に出てくる言葉なんですね。フランシスコ会訳(カトリックの人たちが翻訳した聖書)では、

「しかし、知恵の正しさは、知恵の子らすべてによって証明される」

と出てきます。

 でも、この「知恵の子」は「賢い小学生」のことじゃぁなくて、「議論の進め方」でしたね。ですからこのフランシスコ会訳は、

 「しかし、知恵の正しさは、議論の進め方によってわかります」

ということだと、ハッキリ分かりますね。

 ここで、私はアベシンちゃんの議論の進め方を思い出したんですね。

 昨日の夕方、NHKで国会中継を見たり、また、ウェブ上の国会中継を見ていたんですね。そしたら、アベシンちゃんの話は、何回聞いても、「分かんない」んですよ。よく聴いてるとね、”「俺チャマのやろうとすることに、ツベコベ言うな」ということでしかない”、と、強く感じますね。議論をしているようで、現実には、暇つぶし、「80時間審議時間を取りました」という形を整えるアリバイ作りでしかない、と強く感じます。何故でしょうか?

 このヘブライ語から考えた聖書の言葉

「知恵の正しさは、議論の進め方によってわかります」

からすると、アベシンちゃんには、「知恵の正しさ」がないばかりか、あるのは、浅知恵でも猿知恵でもなく、さらには悪知恵ででさえなくて、愚かしさ(国会で証言された、憲法学者の小林節先生のご指摘通り、戦争法案を通せば、莫大な戦費が掛かって、それじゃぁなくても破綻寸前の国家財政が、確実に破たんすることになるでしょう)と狂気だけだぁ、ということが、ハッキリ分かって、スッキリしますね。

https://www.facebook.com/hideki.ishikawa.332/posts/391723644354037?notif_t=like

を参考にして、是が非でも、お腹と頭が弱いアベシンちゃんにお休みを挙げてくださいね。ビョーキですから、お休みしてもらいましょうよ。

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