ルターは回心したのも、ケツを出すトイレでしたが、言葉遣いもケツ言葉でした。
Young Man Luther 『青年ルター』p206の第3パラグラフから。
問題は、こういったことすべてが、いかに異常で、いかにビョーキかということじゃぁ、ありません。そうではなくて、1人のルターを、別のルターを考えることなく、思い描くことができるかどうか、ということです。私どもは、結論を述べる時にもう一度この問題に戻ることにしましょう。しばらくは、マルティンの良心が暴君の様だったことと、マルティンが癇癪持ちだったと分かれば、それは、役に立つことになることでしょう。それは、説教者であるルターが、説教をするという行為において、自分の心のバランスをとると同時に、自分を確かにさせていたことを知ることと同じくらい役立つことでしょうし、また、ルターが、それとともに、人と神の関係、および、人と自分の関係においても、新たな関わり方を見出していた、ということを知るのと同じくらい役立つものでしょう。
良心が暴君のように、悪い良心であるとき、ほとんどの人は異常ですし、ビョーキです。でもエリクソンはそのことを問題にしません。むしろ、ルターが説教という形の自己表現の方法を見出したことに、価値を見出していたのですね。自己表現の方法を見出して、それが自他ともに価値あるものとみなされることか、セラピーになるということをエリクソンは知っていたからですね。ルターは、説教をすることで、聴衆を救っただけではなくて、自分自身を救ったのでした。そしてそれは同時に、人と神、自分と自分の関係に、今までの人は気づかなかった新たな関係を見出すことと結びついていた、というのですから、面白いでしょ。