エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

本当に自分のためになることは、自ずから人様のためにもなる不思議

2015-06-15 08:14:08 | アイデンティティの根源

 

 ルターは回心したのも、ケツを出すトイレでしたが、言葉遣いもケツ言葉でした。

 Young Man Luther 『青年ルター』p206の第3パラグラフから。

 

 

 

 

 

 問題は、こういったことすべてが、いかに異常で、いかにビョーキかということじゃぁ、ありません。そうではなくて、1人のルターを、別のルターを考えることなく、思い描くことができるかどうか、ということです。私どもは、結論を述べる時にもう一度この問題に戻ることにしましょう。しばらくは、マルティンの良心が暴君の様だったことと、マルティンが癇癪持ちだったと分かれば、それは、役に立つことになることでしょう。それは、説教者であるルターが、説教をするという行為において、自分の心のバランスをとると同時に、自分を確かにさせていたことを知ることと同じくらい役立つことでしょうし、また、ルターが、それとともに、人と神の関係、および、人と自分の関係においても、新たな関わり方を見出していた、ということを知るのと同じくらい役立つものでしょう。

 

 

 

 

 良心が暴君のように、悪い良心であるとき、ほとんどの人は異常ですし、ビョーキです。でもエリクソンはそのことを問題にしません。むしろ、ルターが説教という形の自己表現の方法を見出したことに、価値を見出していたのですね。自己表現の方法を見出して、それが自他ともに価値あるものとみなされることか、セラピーになるということをエリクソンは知っていたからですね。ルターは、説教をすることで、聴衆を救っただけではなくて、自分自身を救ったのでした。そしてそれは同時に、人と神、自分と自分の関係に、今までの人は気づかなかった新たな関係を見出すことと結びついていた、というのですから、面白いでしょ。

 

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小学校の校則が厳罰主義だと、刑法も厳罰主義になる不思議

2015-06-15 06:53:24 | エリクソンの発達臨床心理

 

 今の日本の学校は、金森俊朗さんの実践やら、上手な教員もいないではないいのです。そこに確かに希望はあります。でもいかんせん、大多数派が、「いいよ」と「だめよ」の境目をハッキリさせるという、第2の発達危機においても、その礼拝に失敗しているケースがあまりにも多いのが残念です。

 The life cycle cpmpleted 『人生の巡り合わせ、完成版』、p47の第3パラグラフから。

 

 

 

 この舞台は、礼拝のもう1つ大事な原理が出来上がる所です。私はその礼拝の原理を「ジュディシャス judicious 分別がある」と呼んでいます。というのも、この言葉は「法律」と「言葉」を組み合わせているからです。すなわち、合法性を意味する言葉の精神を快く受け入れるようになることが、ここでの発達の重要な局面です。それで、ここには、あの偉大な人間が、何が自由意思で、何が自己決定で、何が罪と違反の法的定義であるのかという問いに夢中になることの、生育歴上の源があります。したがって、この人生の側面にもとがある制度は、法律と、人が行動する自由とによって定義される制度です。

 

 

 

 

 

 日本では、得てして、子どもの行動は制限されていることが多い。それは家庭でも学校でもそうです。別に特別じゃうないんじゃぁないのかな? と思う人も少なくないでしょう。でもね、たとえば、オランダでは、多くの公立学校で、授業中に何を学ぶかは、子どもが選択できる、ということに思いを致してください。オランダでは、日本のように、一斉授業ではないんですね。かたや、日本の学校では、マスコットキャラクターひとつ、カバンに付けていくことが禁じられている、なんて学校があります。行動が極端に制限されてますでしょ。日本では、子どもが1人の人格と認められることが極端に少ないからです。

 子どもに対して厳罰主義でしょ。そうすると、法制度も、自ずから厳罰主義になるんです。

 

 

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机上の空論と戦争の現実

2015-06-15 03:48:08 | エリクソンの発達臨床心理

 

 今日、NHKで沖縄戦の番組「沖縄戦 全記録」を見ました。戦い方はペリリュー島での戦いと同じで、「狂気の戦い」であって事が分かります。日本軍の持久戦・ゲリラ戦 vs アメリカ軍の火炎放射・無差別攻撃です。戦争で狂気でないものはないので、特別ではないのかもしれませんがね。ペリリューでも、住民は強制移住という形で巻き込まれていますけれども、沖縄戦は直接戦闘に巻き込まれた。

 戦争とは、総力戦になった第一次世界大戦以降、軍人と市民(シビリアン)の区別もないことがハッキリ分かります。ということは、前線と兵站(後方)の区別などあろうはずがありません。前線と兵站を分けるのは、お役人がよくやる 《机上の空論》 でしかない、ということが、このような記録を見ることによって、改めて分かります。

 伊江島。沖縄本島の北西部のある小島です。4月20日に、この伊江島で700人以上の人が亡くなったと番組で紹介されました。伊江島市民は当時、3,000人だったと言います。その4人に1人が1日で亡くなった。日本軍自らは「切り込み」を禁じていたのに、住民には「切り込み」作戦を強要した訳です。日本軍は市民を守るどころではなくて、日本軍が市民を利用したわけですね。また、ガマ(洞窟)に逃げ込んだ市民が、集団自決を強いられた。こうして、3,000人の市民の内、半数の1.,500人が殺されました。

 戦争は「狂気」そのもの、殺すか殺されるか。軍人と市民の区別もなければ、前線と兵站の区別もありません。それを区別できるのは、戦争から遠いところで、自分は戦争に行かないで済む、と思ってる人くらいですよ。

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