エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

心の病から回復するのは、受け身になる時だけ?

2015-06-22 08:44:50 | アイデンティティの根源

 

 受け身のなることは、女性が赤ちゃんを授かるのと、似ています。

 Young Man Luther 『青年ルター』p207の第3パラグラフ下から4行目途中から。

 

 

 

 

 

しかし、男性が受け身の態度や受け身の感じ方を女性的だと呼ぶのは、男性中心主義の緊張のために、受け身の態度や感じ方を、遠ざけてきたからなんですね。というのも、このような受け身の感じ方は、どんな人間でも、生まれながらに持っているものですし、私どもの、部分的な、あるいは、全体的な働きがよって立つのは、受け身であることと能動的であることを受けとめ受け入れることなんですね。男性的な人の常として、自分はたたき上げだ、という格好をしたがります。あるいは、とにかく、優しい女性から自分が生まれたとは思いたがりません。たくさんな思春期の儀式(アメリカの南西部の、キヴァ[地下聖堂での儀式]からの再生を考えてみてください)は、スピリチュアルな母親から、男性だけが理解できる種類の人間が、新たに生まれることを演劇化するものです。

 

 

 

 

 人間が心の病から回復する時、あるいは、ルターのように宗教的回心を経験する時、それは、スビリチャアルな母親から、自分が新たに生まれ変わることとして経験されます。自分が自分を生み出すのではありません。英語でははっきりしますが、生まれるのは常に受動態、私は命を授かった、I was born.... という訳ですね。

 逆に言うと、受け身のなることなしには、心の病気からの快復も、宗教的な回心も、ない、ということです。

 

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恵みと幸い、その秘密。

2015-06-22 06:57:19 | エリクソンの発達臨床心理

 

 「人間を上下2つにわれるウソ」は、ウチ(内人)とソト(外人)を分けて考えやすい日本人が陥りがちなウソなんですね。

 The life cycle cpmpleted 『人生の巡り合わせ、完成版』、p49の最終行から。

 

 

 

 

 

 しかし、ついでに、あらゆる発達が展開する際に、なくてはならない性質を、もう1つ申し上げなくてはなりません。遊び相手をする人たちの範囲が増すにつれて、発達する子どもが、だんだん広範な人々の集団で、新しい役割をするようになるにつれて、最初の2項関係や3項関係にような根源的な人間関係のバターンが、大きくなった後も新しい形で現れるようになる、と言う点です。このことは何も、最初の共生関係にこだわりがあるだとか、退行するだとか、いう印としてふたたび登場すると考えるのが、別に証拠はないけれども、正しい、ということじゃぁないんですね。そうじゃなくて、これは、ライフサイクル・モデルの中での、1つの繰り返しなんですね。その繰り返しとは、(単なる繰り返しではなくて、)より良く成長した発達のレベルでの繰り返しで、しかも、高度なレベルでコントロールする原理と心理社会的なニーズとに見合った繰り返しなんですね。

 

 

 

 

 

 ライフサイクル・モデルにおいては、繰り返しに見えることも、幼児退行だとは、必ずしも見ませんね。退行の場合もあるけれども、人生の中で繰り返されることは、螺旋階段のように、次第に高度なものとなると考える訳ですね。ですから、うまくすれば、根源的信頼感は、その年齢にふさわしい役割のために、根源的で、建設的な役割をなします。逆に、下手をすれば、根源的不信感は、年齢が高くなっても、根源的に、破壊的な役割を繰り返すことになる訳です。

 恵みと幸い、その秘密は、ここにあり。

 

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「NO」とハッキリ言うことから、人間らしい我々の暮らしが始まる

2015-06-22 06:02:23 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 
人生の黄金律 : 人を大事にできるのは、自分が大事にされた分だけ
  根源的信頼感は、赤ちゃんの時の発達危機で、良い音色が響きあう時空を経験すると、身に着けることができます。今の日本では、赤ちゃんの時の、この発達危機が乗...
 

 

 法政大学の山口二郎教授が、日本を「狂気の国」と呼んだコラム(上掲)を書いたのが、去年の7月20日。それから1年ほど。この時、山口二郎教授は、日本の狂気の例を3つ挙げていました。1つは、川内原発のこと。原子力規制委員会の田中俊一委員長が「委員会は、(川内原発の)安全性を確認していない」と言っているのに、アベシンちゃんの政府は「(川内原発の)安全性が確認されたので、再稼働を目指す」という狂気。2つは、アベシンちゃんは、「武力行使はしない」というのに、「武力行使」と見なされるのが国際的なスタンダードである「機雷掃海」はやるという狂気。3つは、小保方晴子さんの「ろくに審査もせずに出した」博士号を、早稲田大学が撤回しない狂気。これは、この後10月になってから、コッソリ博士号取り消しが決定されましたが。いまや、小保方晴子さんの話題は懐かしい感さえある。

 山口二郎教授教授は、この狂気を「事実と論理によって議論を重ねて結論に至るという当たり前のことが打ち捨てられていること」だとして、その原因を「政治や学術の指導者に共通しているのは、我田引水と責任転嫁の組み合わせ」に見出しています。

 これは、丸山眞男教授や加藤周一さんが繰り返し指摘してきた、古くて新しい問題です。それは、組織や国内だけでしか通用しないことを、最も大事なことをしているかのようにやるのが、集団に埋没した日本人のルーティーンになりやすい、ということです。

 その後、日本は正気を取り戻したのでしょうか? 

 今国会の、アベシンちゃんの意味不明な言葉を聞くにつけ、狂気が深まりこそすれ、正気を取り戻したとは思えません。

 その中で、いくつかの希望があります。

 1つは、官邸前の戦争法案反対デモと集会に、多数の若者が参加していること。若者が戦争法案に明確に「NO」と言っていること。

 もう1つは、憲法学者が、戦争法案を明確に「違憲だ」としたこと、それを受けて、専門や大学の垣根を超えて、良識ある人々が、戦争法案に対して明確に「NO」と声を上げていること。

 宮田光雄先生流に申し上げれば、

 私が「NO」とハッキリ言う、故に、日本の市民が人間らしく生きることが可能になる。

 

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