エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

聖霊は場所を選ばない

2015-06-09 08:53:20 | アイデンティティの根源

 

 ルターは思いがけずに、劇的に変化をした人でした。

 Young Man Luther 『青年ルター』p205の第2パラグラフから。

 

 

 

 

 

 マルティンが霊的な回心をしたのが、汚い場所だったかもしれないとすることを拒絶する人たちは、聖パウロが、てんかん発作を起こしてたことを忘れてんですね。身体的発作は、お尻の筋肉が上手く働かないことと重なる場合が多いのにね。また、そういう人たちは、気持ちの経験と、霊的な経験が1つとなるような、心身に渡る関わりを否定しますもんね。学者連は、自分達が着想を得る時と同じに、椅子に腰かけた時に、霊的な回心が起こると考えたいんですね。

 

 

 

 

 ルター研究の時も、今も、学者連のやることと言ったら、ですね。さすがはエリクソンは臨床家であって、その臨床に誠実な研究者でもあったので、とってもクリアーですね。ですから、ルターの回心の場が、トイレだった、ということはとっても大事なことでした。

 聖霊は場所を選ばない。

 研究も本当の着想は、机上でないことの方が多いのにね。

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ヌミノースは深~い

2015-06-09 08:06:59 | エリクソンの発達臨床心理

 

 ヌミノースは、集団を包むものであると同時に、集団を超越します。集団を超越しない時、あらゆるケダモノの始まり始まり…。

 The life cycle cpmpleted 『人生の巡り合わせ、完成版』、p45の最終行途中から。

 

 

 

 

 

君主制は、宗教や芸術が「我こそはヌミノースを養うものなり」と主張するのと、競い合ってきましたし、現代では、政治的価値が、たくさんの旗印の下で増えた指導者の顔と共に、このヌミノースの働きを受け継ぎました。でもね、疑い深い観察者たち(この観察者には、強力なセラピーの他に、専門職としての「運動」を共にしつつ、壁にはフロイトの写真を飾り、英雄的な前史をセラピーの価値とする臨床家も含みます)にとっては、このようなすべての人を包み込み、人智を超えもする経験に対する必要性を、子どもの経験に部分的に退行するものであるとか、あるいは、いろんな社会病理だとか、考えることは、安易に過ぎることです。このようなすべての人を包み込み、人智を超える存在とも繋がる必要性は、その必要性に関わるあらゆる発達と歴史の相対性のもとに研究しなくてはならないものですね。

 

 

 

 

 

 ヌミノースは、深くて強い経験です。ですから、子どもの心理や社会病理としてだけ研究したのでは、全く足りないものなんですね。あらゆる宗教や文化とも相亘るとともに、個人にとっても、本来なくてはならない、エッセンシャルなものだけに、発達と歴史をジックリと考え併せて研究する必要がある、という訳ですね。深~いですね。

 

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被災地ではやるもの

2015-06-09 06:39:58 | エリクソンの発達臨床心理

 

 被災地で流行るもの。そう言われて、何を想像するでしょうか? 地震、津波、原発事故に伴う放射能汚染。そして、それらの影響? まっ、確かにダンプは多い。道路工事も目に付く。しかし、それは、オリンピックの準備をしている外苑や有明だって、同じでしょ。工事をしてりゃぁ、日本全国そんなもの。特別、流行ってる訳じゃぁない。

 被災地と言って、何か特別なことがあるはずだ。心理支援の人もそう考えるはずですね。一番代表的なのは、PTSD、心的外傷後ストレス症候群、と呼ばれるもの。フラッシュバックと言って、意識でコントロールができないレベルで、不意に怖い場面を思い出したりすることがあります。私も1ケースだけ、そういうケースがありましたっけ。その人は、学校の管理職で、津波に襲われた学校の人でした。でも、それは直接津波が怖かった、と言うよりも、津波に流されて、「助けて~」、「助けてくれ~」と叫びながら、川を流された人を何人も助けられずに、「見捨ててしまった」ということが罪責感となっていたからでしたね。今「1ケース」と申しましたでしょ。私は被災地での心理支援が4年目なんですね。大体95ケースを担当してんですけれど、PTSDはたった1ケース。ですから、被災地のイメージからくる心理的被害は、現実には例外的存在です。

 被災地の現実は、実際はどうなのか?

 それは、現実には、ケースの9割以上が「愛着障害」のケースです。それは今どきの日本では、標準でしょう。津波が来なかった東京や、横浜、大阪や、鳥取、熊本でも、新潟でも、「愛着障害」だらけ。先日同窓会で久しぶりに会った、もともと障害児福祉の先生も、日本全国どこに行っても「愛着障害」の話をしているとのこと。そりゃそうですね。「私も毎日、愛着障害の話をして、愛着障害児のセラピーをしてます」と話が合いましたね。

 神戸で研究してた研究者の人も、来ていますが、その辺の事情が全くお判りでない。研究者になって、一定程度の社会的ポジションを得てると思ってるからかもしれません。まともな臨床をしてないからだと思います。いくら私が「愛着障害が…」と言っても、ピーンときた、という感じが皆無ですからね。臨床をやってるはずがありませんね。

 まあ、そんな状況ですからね。被災地だからと言って、特別ではないんですね。大地震や津波は、視覚的にインパクトがありましたから、その影響を過大視してんですね。でもね、今の日本は、一発の大地震、一発の大津波よりも、日常生活の方が、はるかに、デカくて、はるかに深刻な、非人間的な世界なんです。ですから、それは、被災地でないところと同じです。非正規の仕事が増えれば、被災地でもそう。離婚が増えれば、被災地でもそう。自殺が増えれば、被災地でもそう。特別じゃあない。

 被災地で一番流行るもの。それは「愛着障害」はじめ、日本で残念ながら流行っていることが、そっくりそのままなんですね。

 そして、それは、今の日本の日常が、「大」が付く地震や津波に比べても、はるかに残酷で、はるかに陰惨で、はるかに人間破壊なものだ、ということです。

 

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