エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

「タケノコ」も場所を気にしない話

2015-06-06 09:19:00 | アイデンティティの根源

 

 ルターにとっては、トイレが面接室でした。

 Young Man Luther 『青年ルター』p204の第4パラグラフ下から6行目から。

 

 

 

 

 

それでも、シェールは、この解釈は捨ててしまい、実際には、ルターの写本を採った者で、大の大人を不快になるくらいに身もだえさせようとしたり、真面目な学者連に、人を小馬鹿にした態度で、顎であしらう真似をさせたりした者はおりません。かの精神分析家は、Clはトイレのことだと結論付けました。でもね、なかには、「どこで事が起こったのかは、そんなに大事じゃない」と、傲慢にも言う者もいますがね。

 

 

 

 

 エリクソンは、ルターの回心がトイレだったことを大事にしてるみたいでしょ。それはね、昨日も記しましたように「出す場所」だからです。ルターは「出さない質」「ガマンの人」だったからです。面接室に来る人も、その手の人で、自分では、その手の人と思ってない人が大半を占めますからね。

 面接では、時と場と中身の3つがいつでもどこでも、大事です。ですから、「どこで事が起こったかは、そんなに大事じゃない」などと言う輩は、三流以下、ヤブ医者以下の「タケノコ」と相場が決まってます。

 これは、昔話ではありません。現在進行形のまさに≪いまここ≫の事実です。

 

 

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「怒り+不安」の風

2015-06-06 08:32:12 | エリクソンの発達臨床心理

 

 やり取りができない人、それはプライベートな人、すなわち、それは、「何かか奪われている」、「何かが足りない」人なんですね。ピーンときますもんね。そういう人を前にするとね。大体、「怒り+不安」の風が吹いてますからね。愛着障害の子どもと同じです。教員でも、結構高い確率でいますよ。正確には、「教員(ヒューマンサービス)だから」ですけどね。

 悪い良心、恐るべしですね。

 The life cycle cpmpleted 『人生の巡り合わせ、完成版』、p45の第2パラグラフから。

 

 

 

 

 

 私がいまここで認めなくてはならないのは、「リチュアリゼーション やり取りのある関係」と 「リチュアリズム、形ばかりの(お役所仕事の)関係」、という言葉を、こういった現象に当てはめることは、実際には、日々のリチュアリゼーション、すなわち、「毎日の礼拝」と、その毎日の礼拝が行われている文化の中にある、荘厳な文化的儀式(訳注 カテドラルなどでのクリスマス礼拝、長野善光寺の御開帳など)とに相当しています。私が以前にそれとなく示したことですが、お母さんと赤ちゃんがお互いに価値ある存在と認め合うことは、生涯を通して、1番ありがたい出会いのモデルになっているかもしれないのです。

 

 

 

 

 

 お母さんと赤ちゃんが、お互いに宝物と認め合うことは、毎日の礼拝そのものですね。それは、ルターの回心と同様の、神様と出会うことと同じです。それがエリクソンが言う「リチュアリゼーション、やり取りのある関係」です。ここでは、心からの悦び、あの子のような、キラキラした瞳がありますから、すぐにそれと分かります。

 それに対して、形ばかりの、すなわち、中身のない、お役所仕事の関係が、荘厳な文化的儀式に、入り込みやすい。形が立派過ぎると、中身がなくても、人はやれちゃうもんだからです。でもこれは、文化的に荘厳な儀式だけとは限りません。私の周りには結構お役人がいるんですね。そういう人たちは、心からの悦びの代わりに、特徴的な嘲りがありますし、キラキラとした瞳の代わりに、堅苦しい眉間のシワ、がありますから、それとすぐに分かります。

 あなたはどちらを選びたいのかなぁ?

 

 

 

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≪いまここ≫をホントに生きてる?

2015-06-06 07:53:43 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 
温もりと学び
  見ることの三項関係 心はこの三つが結びついてできるものなのです 加藤周一のような哲学的な評論家リップマンのモノを見る...
 

 つい先日、愛着障害の子どもに対するセラピーは、これだ!で、ルース・ラニウスさん等の『心に傷を負わされた子どもを癒す』(2015)から、p278の図表の解説部分を翻訳して載せましたでしょ。ちょっと具体性が分からない部分がありましたね。なんせ、まだ全部読んでませんからね。300ページ以上の大著ですから、二三日で読める訳ないですもんね。それでも、昨日は事務所勤務でしたので、2時間ほど、この本を読む時間にあてることができました。

 そして、時間について、心の傷のために、苦しくて嫌な感じがすることについて、少しわかりましたので、お伝えしますね。

 私たちは、いつでもどこでも、≪いまここ≫にいますね。でも、いつでもどこでも、≪いまここ≫を生きられる訳じゃぁないんですね。心の傷が深いと、フラッシュバックを起こします。また、それほどでなくても、未解決の辛い体験があると、それとは分からぬまま、知らず知らずに囚われる、ということが、非常によくあることなんですね。フラッシュバックと言ったら、そんなに多くの人が体験することではありません。でもね、後段の、「未解決の辛い体験があると、それとは分からぬまま、知らず知らずに囚われる、ということ」を、全ての人が無意識裡に体験している、と言っても少しも過言ではありません。えっ、手思うでしょ。真実は得ていて、「えっ〔(ホント?)or(ケイカラン)〕」、がつきものです。ガリレオ、杉原千畝さんのことを考えればわかるでしょ。

 そうすると、≪いまここ≫を生きるどころではなくて、自分でコントロールができない、無意識の圧倒的な力に流されて、過去の辛い体験にべったりとくっついている驚き、衝撃、激しい怒り、殺したいくらいの憎しみなどが、≪いまここ≫にドッと出てきてしまいます。そうしたら、≪いまここ≫を共にしている人たちには、たまんないですよ。急に動揺されたり、急に怒鳴られたり、打たれたり…。

 ですから、その辛い体験を過去に≪あそこ≫であったこととして、心に収めなくちゃならないでしょ。それは、その辛い体験を、しっかり見つめること、「あきらめる」こと、凝視すること、ふつうは一人ではできませんから、心理療法を受けたり、お祈りをするんですね。

 ティク・ナット・ハーンさんのマインドフルネスのもとになった言葉ね、バーリ語でsati、英語のsit(座る、腰かける)と同根の言葉のはずです。その意味は、「心に留めておくこと」、あるいは、「心に留めておくための注意力」の意味だそうですね。同じことです。

 ですから、あなたも、どなたか大事な方と、自分のお「辛い体験」を「共に見る」ことを通して、≪いまここ≫を生きてくださいね。 

 

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