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エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

あっ、気付き

2015-06-02 07:26:31 | アイデンティティの根源

 

 キリストの≪真≫くらい感動的なものはありません。

 Young Man Luther 『青年ルター』p204の第2パラグラフから。

 

 

 

 

 

 これが、突破口でした。詩篇講義の中で、あるいは、詩篇講義の中でだけ、ルターは、聖アウグスティヌスが、自分が「あっ」と気付いた霊的覚醒について説明した件を4回も引用しています。まさに最初の詩篇講義の時1回、「詩篇」第31篇が原因で劇的に混乱したことと関連して1回、それから、「詩篇」第71篇との関連で2回。

 

 

 

 

 アウグスティヌスが「あっ」と気付いた霊的覚醒は、放蕩の限りを尽くした後の瞬間的のものだったらしい。ルターは、放蕩はしてないけれども、深ーい憎しみを抱き続けた後で「あっ」と気付く霊的覚醒だった点で、アウグスティヌスと重なりました。

 

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本当に≪私≫の相手になってくれる人だなぁっていう感じ

2015-06-02 07:10:53 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 お母さんは、どこにでもいそうなお母さんになると同時に、1人の赤ちゃんの特別なあ母さんにならなくてはなりません。

 The life cycle cpmpleted 『人生の巡り合わせ、完成版』、p44の15行目途中から。

 

 

 

 

 

人が最初に「礼拝をする関係」になるのは、誰もがやってることや、誰もがやらなくてはならないことを次から次へとやりながら、お互いに相手の価値を認め合うのになくてはならないことを、顔と顔を向い合せて、名前を呼び呼ばれながら、繰り返し満たすことなんですね。そして、ここですね、1人の赤ちゃんとそのお母さんを組合わせるのが常ですが、もちろん、他のお母さんに代わる人たちでも、お父さんたちでも、その赤ちゃんの中に、「あっ、この人は大事な人だなぁ」「本当に≪私≫の相手をしてくれる人だなぁ」という感じを呼び覚ますことができれば、どなたでもいいんですね。

 

 

 

 

 

 不思議でしょ。先ほど記しました私のブログ、一人ではできない不思議と同じでしょ。別に今日ここを翻訳するから、さっきの一人ではできない不思議を書いたわけじゃぁ、ないのにね。

 最初に「礼拝をする関係」になるのは、人が瞑想やお祈りをすることと、全く同じことです。それは、先ほど申し上げた通り、心の、しずかな、深いところで語りかけて下さる存在の語りかけに耳を澄ませることです。それは、お母さんが赤ちゃんの、声にならない声に耳を澄ませて、それに応えると同時に、赤ちゃんが、お母さんの、声にならない声に、自ずから、応えていくことで、赤ちゃんも、お母さんも、相手を価値あるものと認め合うのと、全く同じです。

 ですから、赤ちゃんとそのお母さんは、最初の「礼拝をする関係」になれるわけですね。

 ここでキーポイントなのは、エリクソンがハッキリ言っている通り、「あっ、この人は大事な人だなぁ」「本当に≪私≫の相手をしてくれる人だなぁ」という感じです。

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一人ではできない不思議

2015-06-02 05:12:53 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 
自分のことはいったん脇に置いとくと、見えてくるもの
  他者の「声なき声」に応えるためには、日ごろから自分自身の「声なき声」である、静かな小さい声に聴き従っていることが必要です。今日はp27 L4から。...
 

 人は自己中心的になりやすい。でも、自分の心の傷に気付かないで過ごしているから、いつの間にか、その心の傷にくっ付いている、悲しみや怒りや憎しみなんかが、知らないうちに悪さをするんですね。そんな気持ちに、いつの間にか心が支配されているから、自己中心の罠から自由になれない。

 逆に言ったら、自分の心の傷に気付いて、その手当をしてもらうと良い。それにはいろんな方法があります。カウンセリングや心理療法、あるいは、念仏や座禅もいいでしょう。瞑想やお祈りもいい。でもね、自分一人じゃぁ出来ないところが不思議なところですね。と同時に、心の底からの悦びの源でもあります。

 えっ、と思う人もいるかもしれませんよね。カウンセリングや心理療法なら、カウンセラーやセラピストがいるから分かる。でもね、念仏や座禅、瞑想やお祈りは1人でやるんじゃないのかしらね、と思うかもわかりません。でもね、果たして本当にそうでしょうか?

 たとえば、瞑想やお祈り。でも、その本当の姿を知らない人は、それが、「家族が健康でいられますように」だとか、「東大に合格しますように」だとか、「年末ジャンボが当たりますように」だとか、自分や人のお願いを言うものだ、と思っているかもしれません。そういう場合が0とは言いません。でもね、そういうのは、ホントの瞑想でも、ホントのお祈りでもない。

 ユダヤの最も身近なお祈りは、ヘブライ語で「シェマー・イスラエル」、すなわち、「聴け、イスラエルよ」です。「旧約聖書」の「申命記」第6章4節に出てきます。本当に瞑想やお祈りをしていますとね、小さな声が聴こえてきます。別に幻聴ではないんですよ。語りかけて下さる存在が、心の、静かな、深いところにおられる。人間はそういう風にできているみたい。それはね、特別なことじゃない。そして、それは、日々の生活を、平安と深い喜びに満ちたものにする源です。

 そして、私はまた、ハタと思うんですね。

 「この小さな声は、誰にも 聴こえる声ではないかと思う」(『後世への最大遺物』のヴァリエーションです)。

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