エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

キリストの≪真≫こそ、神が下さる優しさです

2015-06-01 07:58:06 | アイデンティティの根源

 

   「キリストの≪真≫こそ、神が下さる優しさです」と気付くと嬉しい。嬉しいから、雰囲気や言葉遣いまで変わっちゃう。当然ですね。

 Young Man Luther 『青年ルター』p204の2行目途中から。

 

 

 

 

 

「キリストの≪真≫こそ、神が下さる優しさです」の次に来るのは、フォーゲルザンクが、新たな、根っからの「プロテスタント(抗議する者)」を決める言葉の、熱狂的な連続と呼んだものです。こういった言葉のどれかを選ぶのは、後にしましょう。こういった連続した、いろんな言葉は、キリストが、神様と人の間を結びつけることを、ルターがようやく理解できた、その中心を示し、また、人が「神の子」であるという考え方の中心も示します。

 

 

 

 

 

 短いところですが、昨日と今日翻訳した、この段落は大事でしょ。ルターは喜びのあまり、熱狂的にいろんなことを言ったんでしょう。しかし、それは、ルターが「キリストの≪真≫こそ、神が下さる優しさです」の聖句を正確に理解したことを示すことで、その後の500年以上にわたるキリスト教史を一貫するものとなったのですから、とっても大事。

 そして、それは、今も生きてますしね。

 

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とっても日常的な 「儀式をする関係」

2015-06-01 07:20:11 | エリクソンの発達臨床心理

 

 「儀式をする関係」は、とっても、個別的なのに、ある集団内にとっては、非常に典型的、という相矛盾した性質を同時に持ちまして、誠に臨床的です。

 The life cycle cpmpleted 『人生の巡り合わせ、完成版』、p44の8行目途中から。

 

 

 

 

 

この手続き全ては、どれだけの間隔で、身体とリビドーが、何かが欲しくなるのか、という“間”に重なります。というのも、この全てが、その子どもがだんだんと分かるようになる認知力と、死に物狂いのいろんな経験を、世話されることによって一貫したものにしたい、という情熱に応じたものになるからです。その母親には、産後にあっても、いろんな点でやらなくちゃならないことが、いろいろあります。というのも、この母親は、1人の母親になったことに本能的な悦びを感じたとしても、この母親もまた、特定の子の母親に、特別なやり方でなる必要もあるからなんですね。

 

 

 

 

 これは具体的なことが書いてないと分かりにくいところかもしれませんね。たとえば、おっぱい。男の私が言うのもなんなんですが、エリクソンも男ながら、この点で詳しいので、お話しますね。

 おっぱいは、眼の前にいる赤ちゃんのニーズに合わせて、上げなくてはなりません。おっぱいを上げる間隔が長い子もいれば、短い子もいます。母親はその子に合わせて挙げますね。また、はじめはぶきっちょに上げてたお母さんも、だんだんとおっぱいを上げることになれてきますでしょ、そうすると、はじめは一回おっぱいを上げるのに時間がかかったのに、だんだんと要領がよくなって、短時間で済ませることができます。そのようにして、1人のお母さんでも、子どもが長男の時と長女の時では、おっぱいの上げるバターンが変わります。その一つ一つが「儀式をする関係」になることも、できるんですね。

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出来事を生み出す言葉

2015-06-01 06:03:25 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 
自由の子
  日ごろから自分と対話している人が、他の人と対話ができるのです。 日ごろから自分の、静かな小さな声を聴きつけている人が、他者の「声なき声」に応えるこ...
 

 本棚の部材が緩んでいたのに、なかなか修理ができずにいましたが、今日思い立って、その棚にあったCDを全部出して、部材を組みたい直し、接着し直しました。すっかり元通りになって、CDをその本棚に戻すと、たまたま、昔雨宮慧先生が、教育テレビで通年で講義した「福音書のことば」を録画したDVDが目に留まりました。

 久しぶりにそのDVDを見ましたが、そのテキストも本棚から出して見たところ、この春にあれだけ探した件が、このテキストにあることが見つかりました。その件とは、「創世記」第15章6節の逐語訳です。 この件については、「日常生活の中にある超越 なぞなぞの答えは何だっけなぁ?」「キリストのまこと 「ガラテヤ書」から考えました 改訂版」と題して、以前にもこのブログで取り上げましたね。

 そのテキストの同じ所に、今日のタイトル「出来事を生み出す言葉」が出てきます。今の日本のように、ウソとゴマカシだらけの言葉だらけですと、言葉は、真実を隠し、ゴマカシ、あいまいにするためにある、と考えがちです。残念ですが、それも仕方がないと、思わざるを得ない現実があまりにも多い。

 しかし、「言葉」の本来の働きは、洋の東西を問わず、「出来事を生み出す」ことであったことは明らかです。日本にも、「言霊」と言う考えがありました。中国にも、白川静先生が教えて下さるように、「言」は口にしたことを違えた時の入れ墨刑を示します。ユダヤ・キリスト教でも、言葉を違えた時には、身体が上下2つにバラバラにされても、良し、ということがありましたね。、

 このテキストで、雨宮慧先生は教えてくれています。イエス・キリストはね、

 1) 見る

 2) 近づく

 3) 言葉を話す

の3つがセットになる時には、その話し言葉が

 4)出来事

を生み出す、ということを。

 そして、この4つは、イエス・キリストのこととして語られるのですが、≪真の関係≫においては、いつでも、どこでも、この4つが必ずある、ということが分かります。

 実に不思議ですね。

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