エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

これじゃぁ、個性が出せませ~ん

2015-06-08 22:15:05 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 
繋がっていくこと
  「知る」は頭でっかち、「分かる」は身に染みること 今日は p.30第2段落。  ...
 

 今日のトニー賞、渡辺謙さんが逃したのは惜しかったですね。先日、渡辺謙さんが初めてブロードウエーに挑戦した姿をテレビで拝見し、「すべてを投げ出して、1から始める」ことの、言うは易し、行うは難しを、身をもって実行していることに頭が下がる思いがしたばかりでしたからね。

 今日のクローズアップ現代は、渡辺謙さんの挑戦を再び取り上げるとともに、ブロードウエーやハリウッドの変化も話題になっていましたね。そこで私が1つとくに注目に値すると思ったのが、日本人の俳優に関するコメントでした。そのコメントの主は、ハリウッドで俳優のキャスティングを担当する、キャスティング・ディレクター、奈良橋陽子さんでした。映画「ラスト・サムライ」で、渡辺謙さん、真田広之さん、小雪さん等をキャスティングしたのも、奈良橋陽子さんだったそうです。

 いま、ハリウッド映画では、日本人の役柄を中国人が演じることが増えている、と言うのですね。何故なんでしょうか?

 奈良橋陽子さんによれば、それは「自分の個性をドーンと出す」人、「よりよい社会を作ろうと言う」人が見つからないからだ、ということです。そりゃそうだろうと、私は日本の学校の現状を考えれば、すぐに合点がいきます。「ガッテン!」というわけですね。残念ですね。

  日本の学校は、昨日も当ブログ教育は、教え、教えられることで書きましたけれども、子どもの遊び相手に教員がなっていませんでしょ。なかには、「特別の存在じゃないことを早めに教えてやらなくちゃならない」とはっきり言葉にする教員もいるくらい。恐れ入りますよね。「個性個性」と口では言っても、日本の学校で実際にやってることは、子どもの個性をつぶすことであることが非常多い。 個性は引き出されて初めて芽生え、そして花開くものでしょ。日本の学校は、引き出すことを止めて、カリキュラムや校則などを押し付ける「一方通行」が普通になっちゃってんですからね。個性をドーンと出せる訳がない。ましてや、「よりよい社会を作ろうっていうような人」はなかなか出ません。個性をドーンと出せる人がいるとしたら、むしろ、そういう学校教育からドロップアウトした人でしょう。

 こういうところからも、日本の学校教育の再生を考えていかなくてはなりませんね。

 

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人が変わる時

2015-06-08 16:00:40 | アイデンティティの根源

 

 トイレの神様は、気持ちの神様でもあった?

 Young Man Luther 『青年ルター』p205の1行目途中から。

 

 

 

 

 

この便秘と尿閉の傾向の身体的な因果はともかくとして、その働きそのものは、保つと出す、という身体の器官と関係します。これは、反抗的な子どもたちの場合は、一番ハッキリでますし、大人の場合でも、どっちつかずの行為に出ますね。マルティンの話す力が、子どもの頃、青年の頃の囚われから解き放たれて、ひどく抑圧的で、細かいことにこだわる質から、カッとしやすい人へと変わりました。つまり、マルティンは、自分の気持ちを思いがけずに出すは、気持ちと一緒に、持ち味のいろんな側面も思いかけずに出すは、という自分を見つけ出したんですね。

 

 

 

 

 

 人は変わる時には、変わるもんですね。その変わり方も劇的です。

 

 

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ヌミノースの光は人智を超える時に、本物になる

2015-06-08 14:01:44 | エリクソンの発達臨床心理

 

 ≪私≫の基にヌミノースがあるのですから、人間の基本は、飛び上るほどの、心からの悦び、ということになります。まるで ”子ども” でしょ。それができていないとすれば、それは基本の「き」ができていない証拠です。

 あなたはどうですか?

 The life cycle cpmpleted 『人生の巡り合わせ、完成版』、p45の下から5行目途中から。

 

 

 

 

 

宗教や芸術は、「我こそはヌミノースを養うものなり」と、伝統的に一番強く主張してきた組織です。ヌミノースの輝きを養うことは、ヌミノースの輝きは、ヌミノースが、まとまりになって一つとなった多くの≪私≫達、と分かち合う、いくつもの礼拝の細部に宿るものであるように、全ての人が、全てを包み込む神「私は今ここにいる」と言う名の神・ヤハウェ、と分かち合う儀式の細部に宿るものなのです(エリクソン,1981,「ガリラヤの言い伝えと≪私≫という感じ」)。

 

 

 

 

 

 ヌミノースは、1人の≪私≫が、集団の多くのメンバーの≪私≫達と分かち合うものなのですが、それは同時に、人智を超える神の≪私≫とも分かち合うものなんですね。

 じゃぁ、人智を超える神の≪私≫と分かち合うことは省略して、集団の多くのメンバーの≪私≫達、とだけ分かち合うことになるとどうなるのでしょうか? それは、非常に集団志向的なものになり、熱狂、ファナティズムから生み出される、あらゆるケダモノに変質する危険がいつでもあります。日本の集団主義的組織は、いつもその危険にさらされていますよね。

 

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