エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

ルターが見つけた、秘密の場所

2015-06-20 10:24:10 | アイデンティティの根源

 

 夢中になることから、信頼は生まれます。

 Young Man Luther 『青年ルター』p207の第2パラグラフ下から7行目から。

 

 

 

 

 

Fides est "locus" animae 、すなわち、信頼とは、魂の中心ですし、魂の座です。これは以前から言われてきていることは確かでしょ。でもね、ルターが強調したのは、アウグスティヌスの「魂の注入」でもなければ、唯名論者たちの「服従」でも、ありませんでした。ルターが強調したのは、真実にルネッサンス的なやり方で、神が下さる心の「仕組み」において、自分の値打ちを価値ある存在と認めることでした。このlocus、すなわち、「仕組み」には、それ自体が探し求めるやり方がありまして、自分自身が受け身であることを育てている限り、その「仕組み」は続く、というものですよ。

 

 

 

 

 

 ルターは、自分が宝物だと確信する、その秘密の場所、仕組みを見つけました。それは、「自分が自分が」と、積極的に動くことじゃぁ、ありませんでした。真逆ですね。受け身を大事にすること、恵みを戴くことでした。果報は寝て待て、とはちょっとニュアンスが異なるものですね。積極的に動いてもいい。でも、それがベストではない、2番目に良いことではあるかもしれない、と知っている。一番良いのは受け身であること、恵みとして与えられる、と知っていることです。

 

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ハンナ・アーレントと「やり取りのない仕事ぶりは、ダメよダメダメ」

2015-06-20 09:22:20 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 
内に感じることこそ、根源。しかも「肯定的」!
  今日から第二章弟2節 「親子の≪真の関係≫」に入ります。p36冒頭から。   &...
 

 まだ20代だったころ、スウェーデンの福祉施設で2週間ほど実習したことがあります。ストックホルム中央、ガムラスタンからバスで30分くらいの場所にある、成人の通所施設です。かなり重度の人も通ってきます。 私が最も驚いたことは、職員が毎朝1時間、話し合いを持っていることでした。スウェーデン語でしたから、その中身について詳細には分かりません。しかし、毎日月曜日から金曜日まで、会議を1時間持っていた、ということに私は驚きました。私が当時勤めていた知的障害児入所施設では、話し合いは、週に一度2時間程度でしたから、その差は歴然です。

 また、驚いたのは、最重度と思しき利用者に対してさえ、その日の予定を懇切丁寧に、写真やピクトグラム(絵文字の一種で、日本でも、スポーツ競技のピクトグラムくらいは、テレビでも活用されています)などを用いて、説明していたことでした。その最重度と思しき女性は、表出言語はありませんでしたけれども、これも、一種に話し合いだと、感じましたね。

 いずれにしても、スウェーデンでも、デンマークでも、私が実習させてもらった福祉施設と学校では、おしなべて、働く者同士、働く者とその利用者の話し合いを非常に重要視し、そして、現実に話し合いを持っていました。

 かたや日本はどうでしょうか? あなたの仕事では、あるいは、学びでは、どれだけ話し合いを大切にしていますでしょうか? 

 日本では、概して、話し合いは軽視されることが多い。会議と言っても、話し合いではなく、決まり文句の「特にありません」を並べるだけのものであったり、シャンシャン総会に代表されるように、会議の前に、結論が決まってたり…。私は、これは「自分の頭で考えない練習だ」とつくづく感じています。そして、やることと言ったり、ルールとルーティーン・ワークの繰り返し。「創造性」のかけらもない。

 民主主義の社会は、「自分の頭で考えること」を基本として、その考えたことを「みんなで話し合うこと」が基本でしょ。「自分の頭で考えること」と「みんなで話し合うこと」がセットになって、初めて民主主義的に物事が決まり、民主主義的に物事が進んでいくのだと思います。そのいずれかがないと、もう、その職場は、その学び舎は、「民主主義的ではない」ものに変質してしまっています。そうすると、お腹と頭が弱いけれども、「多数派を頼みとして」、「声を張り上げさえすればいい」というようなアベシンちゃんのような人が、身勝手に物事を決めて、物事を進めちゃおう、と思ったり、お役人たちが、自分の頭では考えないで、考えなしにルールやルーティーン・ワークをするわけですね。

 アベシンちゃんのやってることも、このお役人たちがやってることも、ハンナ・アーレントに言わせたら、「the banality of evil 悪の凡庸さ」と言われます。ルールや指示や、ルーティーン・ワークに従うだけの仕事ぶり、学び方です。「悪の凡庸さ」とはちょっと難しい響きがありますから、「日常語では何と言うかなぁ?」と考えました。ルール通りの仕事ぶりとは、やり取りのない仕事、話し合いのない仕事のことだと思うんですね。決まりきったことを、相手が何と言おうと、やっちゃう、やり方です。乱暴ですけれども、お役所仕事の常ですね。相手が何と言おうが、お構いなしに、やっちゃう。すなわち、考えないから、そんなことができるんでしょ。つまり、

 「やり取りがない」=「話し合いがない」=「考えない」

仕事が、ユダヤ人大量虐殺、ジェノサイドにも繋がる「ダメよダメダメ」の「一番悪いこと」だということでしょう。

 ですから、

 みなさん、自分の頭で考えましょうよ。

 みんなで、話し合いましょうよ。

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わがままを卒業する時

2015-06-20 08:54:00 | エリクソンの発達臨床心理

 

 わがままは、外では「許されない」ことでしょうけれども、お母さんとの関係では「最高の美徳」として許していくと、根源的信頼感をプレゼントすることができます。そのようにして育つと、その子は、わがままであることを卒業して、思いやりがあり、感性豊かな大人になります。

 The life cycle cpmpleted 『人生の巡り合わせ、完成版』、p49の第2パラグラフから。

 

 

 

 

 最初の、赤ちゃんとお母さんの、ひな形となる2項関係が、お父さんたちも含む3項関係に発達する時が、まさに、エディプス・コンプレックスの「葛藤」の条件が生じる時ですね。すなわち、異性の親を手に入れたいと願う本能のような願いと、その結果生じる、同性の親に対する(愛)憎、という葛藤ですね。この最初の愛着関係の、心理・性的側面は、精神分析のまさに中核的なコンプレックスになります。しかし、私どもがここで補足しておかなくてはならないのは、このようにいろんな感情が重なり合う願いが最高潮に達するようにあらかじめ上手に仕込まれているのが、その願いを現実にするための身体の変化が全然ないのに、陽気で楽しい想像力は盛んな時だ、ということです。

 

 

 

 

 

 エディプス・コンプレックスという精神分析の中核的な葛藤は、現実世界では、解消されないのに、空想上で解消できるように、うまくできてる、というが、エリクソンの主張です。それじゃぁ、子どものわがままは? 現実にはエディプス・コンプレックスを解消できない、幼い男の子は、そのお母さんと結婚できないけれども、愉しく陽気に空想することで、その葛藤に折り合いをつける1つのやり方が、わがままとなるのかもしれませんでしょ。

 

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