内に感じることこそ、根源。しかも「肯定的」!
今日から第二章弟2節 「親子の≪真の関係≫」に入ります。p36冒頭から。 &...
まだ20代だったころ、スウェーデンの福祉施設で2週間ほど実習したことがあります。ストックホルム中央、ガムラスタンからバスで30分くらいの場所にある、成人の通所施設です。かなり重度の人も通ってきます。 私が最も驚いたことは、職員が毎朝1時間、話し合いを持っていることでした。スウェーデン語でしたから、その中身について詳細には分かりません。しかし、毎日月曜日から金曜日まで、会議を1時間持っていた、ということに私は驚きました。私が当時勤めていた知的障害児入所施設では、話し合いは、週に一度2時間程度でしたから、その差は歴然です。
また、驚いたのは、最重度と思しき利用者に対してさえ、その日の予定を懇切丁寧に、写真やピクトグラム(絵文字の一種で、日本でも、スポーツ競技のピクトグラムくらいは、テレビでも活用されています)などを用いて、説明していたことでした。その最重度と思しき女性は、表出言語はありませんでしたけれども、これも、一種に話し合いだと、感じましたね。
いずれにしても、スウェーデンでも、デンマークでも、私が実習させてもらった福祉施設と学校では、おしなべて、働く者同士、働く者とその利用者の話し合いを非常に重要視し、そして、現実に話し合いを持っていました。
かたや日本はどうでしょうか? あなたの仕事では、あるいは、学びでは、どれだけ話し合いを大切にしていますでしょうか?
日本では、概して、話し合いは軽視されることが多い。会議と言っても、話し合いではなく、決まり文句の「特にありません」を並べるだけのものであったり、シャンシャン総会に代表されるように、会議の前に、結論が決まってたり…。私は、これは「自分の頭で考えない練習だ」とつくづく感じています。そして、やることと言ったり、ルールとルーティーン・ワークの繰り返し。「創造性」のかけらもない。
民主主義の社会は、「自分の頭で考えること」を基本として、その考えたことを「みんなで話し合うこと」が基本でしょ。「自分の頭で考えること」と「みんなで話し合うこと」がセットになって、初めて民主主義的に物事が決まり、民主主義的に物事が進んでいくのだと思います。そのいずれかがないと、もう、その職場は、その学び舎は、「民主主義的ではない」ものに変質してしまっています。そうすると、お腹と頭が弱いけれども、「多数派を頼みとして」、「声を張り上げさえすればいい」というようなアベシンちゃんのような人が、身勝手に物事を決めて、物事を進めちゃおう、と思ったり、お役人たちが、自分の頭では考えないで、考えなしにルールやルーティーン・ワークをするわけですね。
アベシンちゃんのやってることも、このお役人たちがやってることも、ハンナ・アーレントに言わせたら、「the banality of evil 悪の凡庸さ」と言われます。ルールや指示や、ルーティーン・ワークに従うだけの仕事ぶり、学び方です。「悪の凡庸さ」とはちょっと難しい響きがありますから、「日常語では何と言うかなぁ?」と考えました。ルール通りの仕事ぶりとは、やり取りのない仕事、話し合いのない仕事のことだと思うんですね。決まりきったことを、相手が何と言おうと、やっちゃう、やり方です。乱暴ですけれども、お役所仕事の常ですね。相手が何と言おうが、お構いなしに、やっちゃう。すなわち、考えないから、そんなことができるんでしょ。つまり、
「やり取りがない」=「話し合いがない」=「考えない」
仕事が、ユダヤ人大量虐殺、ジェノサイドにも繋がる「ダメよダメダメ」の「一番悪いこと」だということでしょう。
ですから、
みなさん、自分の頭で考えましょうよ。
みんなで、話し合いましょうよ。