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エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

回心=心の病からの快復

2015-06-16 08:13:17 | アイデンティティの根源

 

 ルターが説教という自己表現の方法を手にしたことは、人びとの救いに役立つばかりではなくて、ルター自身の救いにも役立ちました。

 Young Man Luther 『青年ルター』p206のブランクから。

 

 

 

 

 

 この後は、ルターが最初にした講義のテーマを一つ一つ、精神分析の洞察で議論していきます。神学の素養のある読者諸兄姉なら、ルターが哲学から神学を救ったのは、神学を心理学に付け込ませるだけのためだったのかどうかを、知りたいと思うところでしょう。かたや、精神分析家たちは、私がルターの神様のために、魂という仕組みの中に場所を確保しようとしているじゃぁないの、と疑うかもしれませんね。しかしですね、私の目的は、もっと慎み深いものなんですね。すなわち、私が示そうとしていることは、ルターが人間の条件を再定義したことが、心の中で起こったダイナミックな変化と、見事なくらい形が似ている、ということなんですね。その心の変化は、クライエントが心の病から回復する時に、臨床心理士が見つけ出すクライアントの心の変化と同じなんですね。

 

 

 

 

 

 ルターの回心は、心の病で苦しんでいる人が、その苦しみから回復する過程と、同じでした。回心と、心の病からの快復が、同じものだ、というのは、実に面白いですね。だって、心の病は、ある意味では、「何物も信じられません」ということと同じだということになるからですよ。

 

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悪い良心+情報操作=厳罰主義+権力に対するザル法

2015-06-16 06:07:29 | エリクソンの発達臨床心理

 

 小学校の校則が、小学生の自由を認めない、厳罰主義ですと、自ずから、刑法においても、市民の自由を認めない、厳罰主義になります。別に「風が吹くと、桶屋が儲かる」話じゃぁ、ない。

 The life cycle cpmpleted 『人生の巡り合わせ、完成版』、p47の下から7行目途中から。

 

 

 

 

 

 これに対応する儀式は、刑法制度だと分かります。刑法制度は、それぞれひとりびとりが、自分の心の中で馴染んでいるお芝居を、法廷という公の舞台で、眼に見える形にしたものです。なぜならば、法律とは、私どもはそのように思い込んでいますけれども、用心深いものだからですね。そして、あぁ、なんたることでしょうか、私どもの良心も用心深いのと同じなんですね。刑法制度と良心は、共に、私どもが自由であると宣言はしますけれども、それは、罪をとがめだてしている限りは、の話なんですね。このようにして、分別を付ける要素が、人間が心理社会的に適応することに本来備わっている要素だとなるわけですね。そして、この要素は、人間の生育歴に根差すものでもあるんですね。しかしながら、形ばかりのおざなりになる危険も、ここにある訳です。それは、お役所仕事の形ばかりのおざなりのことです。それはザル法になるか、厳罰主義になるか、のどちらかで、人が強迫的になるのに対応するお役所仕事なんですね。

 

 

 

 

 お見事でしょ。実にエリクソンは深いでしょ。一人の人の心の動きと、公の刑法の制度を、文字通り、1つの舞台で展開できる人って、他に果たしているのかしらね、いないでしょ。

 ここは、今の日本人の心理と、法制度を見事に言葉にしているものでもありますよね。かたや犯罪に対する厳罰主義、かたや、東電の勝俣恒久元会長らが、ドバイの高級マンションでのうのうとしてられるような、権力に対するザル法がありますもんね。それは、日本人の良心が、自罰他罰の悪い良心に侵されているけれども、情報統制が効いているので、権力に都合の悪い事実は隠ぺいされ、情報公開が遅れているので、権力が犯す犯罪がうやむやのされているから、悪い良心の他罰的態度が、権力に向かうのではなくて、マンマと、弱い犯罪者に向いている訳ですね。

 

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高橋三郎先生の「#真」 #真を尽くす

2015-06-16 01:54:56 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 
日本文化における時間と空間
   癒しの時空 見当識の選択は人生の選択 加藤周一  エリクソンが、解釈において感覚的な「感じの...
 

 この前の日曜日の朝、筑豊の伝道者、犬養光弘さんが46年もの間、筑豊でも最も貧しい、生活保護世帯が8割という、福吉で伝道してきた、その軌跡を紹介する「筑豊に「隣人」ありて」が、「こころの時代」で再放送されました。何度見ても素敵な番組だと思いましたね。

 その中で、犬養さんが自分の「先生」として紹介されていたのが、無教会伝道者の高橋三郎先生でした。

 高橋三郎先生と言ったら、晩年は交通事故のために脊椎損傷になったあとも、聖書を自分でめくることさえできないのに、実に力強い、確信に満ちたメッセージを語る方でした。毎週は聖書講義はできませんでしたから、数か月に一度、渋谷の金属会館の集会で聖書講義をされました。

 ある時、犬養さんの友人で、クンちゃん、ムッちゃんという青年が、高橋集会に出たいと言いだしたことを話す件が、その番組に出てきます。犬養さんが、高橋三郎先生の話をよくするので、クンちゃん、ムッちゃんも、先生の話が聴きたくなったらしい。でも、2人はベビースモーカーですし、正座もあまり得意じゃぁなかったらしい。それで、東京の(当時は柿の木坂でやっていた)高橋集会に参加するため、正座の練習をしたり、禁煙をしたりしていたらしい。

 ところが、東京に出発する数日前に、高橋先生から、犬養さんに電話があり、クンちゃんとムッちゃんに、「(2人が集会に)来ることを断ってほしい」と言われたと言います。これだけ読むと、高橋という人は、実に不遜で失礼千万だ、と勘違いする人が、あるいは、おられるかもしれません。これを話す犬養さんは、涙を流していましたから、その涙も、悔し涙だろうと、また、勘違いするかもしれません。

 でも、そうじゃぁないんですね。犬養さんは、感激して涙を流していたんですね。なんで?

 この時、高橋三郎先生は旧約聖書の「レビ記」の話をしていたそうです。「レビ記」と言ったら、生活習慣に関わる細々とした律法、「ねばならないこと」がたくさん書いてあるところです。かなり読みづらいところです。六法全書を読むことを想像してください。あれを面白おかしく読むのは、相当大変でしょ。高橋先生は、もちろん、その難しい「レビ記」をクンちゃん、ムッちゃんにも分かるように準備したけれども、それがどうやってもできない、と考えられた。「それでも、『(聴く人が分からなくたって)話せばいい』と考える牧師も多い」と犬養さんは言います。でも高橋三郎先生は、そうは考えなかった。何故でしょうか?

 それはね、わざわざ九州から東京まで、自分が語る聖書の話を聴きに来る人が、分からないような話しかできないのに、来てもらうのは、クンちゃんとムッちゃんとの関係が真実ではなくなる、と高橋三郎先生は感じたからに、間違いありません。それは、高橋三郎先生と神様との関係が、ウソとゴマカシのない真実な関係であるように、クンちゃんとムッちゃんとの関係も、真実な関係でありたい、と願っていたからに他なりません。ですから、その高橋三郎先生の「真」を感じて、犬養さんは、むせび泣きを泣いたわけですね。

 私もここで涙が自然に流れましたよ。そして、思いました。子どもとの関係で、果たして高橋三郎先生先生ほど「真」を尽くしているのか? 

 あなたは、子どもとの関係で、この高橋三郎先生のような「真」を尽くしておられますか?

 

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