エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

#修復的司法と、#子どもの空想遊び #悪い良心は心の病気になる

2015-06-17 23:48:16 | エリクソンの発達臨床心理

 

 私どもの良心が、自分と隣を厳しく裁く「悪い良心」ですと、心の病が増えますし、子どもを心の病にもしますし、犯罪者を厳罰にしようとします。ノルウェーで、ニルス・クリスティ教授を中心に進めているような、犯罪者にも非常に寛容な「修復的司法(どんな罪深い犯罪を犯した人も、モンスター・化け物ではなくて、人の心を取り戻すことができる、人格と尊厳がある、と認めて リハビリ重視の司法制度)」とは、天と地の差があります。この差はなぜ生じるのか? を考えることは、日本の民主化を考える時に、非常に価値があります。

 The life cycle cpmpleted 『人生の巡り合わせ、完成版』、p48の第2パラグラフから。

 

 

 

 

 

 「遊ぶ年代」とは、結局、学齢前の頃にあるいくつかの礼拝について、語り終えるのに都合が良い舞台です。心理・性的に申し上げれば、遊ぶ年代は、根源的な家族関係を司る、(子どもと母親と父親、3人の)エディプス・コンプレックスのある3項関係を解決しなくてはなりません。家族以外に生まれる、いろんな強い愛着関係は、その子が学齢期を過ぎるまで、引き延ばされます。それは最初の学校教育がどのようなものであっても、違いはありません。しばらくは、遊ぶ年代の間は、子どもたちが自分自身の礼拝の生活領域を上手にできるようになる力を発揮する場面が大幅に広がるのに任せます。すなわち、ミニチュアの玩具の世界、時間と場所を約束する遊びの世界です。悪者を征服する夢を見過ぎたり、その結果、僕は悪い子だと感じすぎたり、そんな空想遊びに夢中になる頃ですね。

 

 

 

 

 遊ぶ年代は、幼稚園に行く3歳から6歳くらいまでです。このころは、最初の愛着関係、根源的信頼感(自分と母親を信頼する感性)が豊かでがあり、2番目の、自分の感性を大事にして自己コントロールしていい感性が育っていれば、実にいろんな空想遊びの中で、自分の力を発揮するわけですね。いろんなごっこ遊びもをしますしね。

 ここでも大事なのは、≪約束≫に基づく遊びなんですね。関わる大人は、子どもとの≪約束≫を意識的に大事にする関わりが、この子どもにとって、最も大事な関わりの一つになります。なぜなら,子どもも大人も,根源的信頼感をお互いに豊かにしながら,関われるからです。

 

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#神様の顔 #座間の殺人事件の容疑者がほしかったのは私心のない笑顔

2015-06-17 08:07:20 | アイデンティティの根源

 

 ルターの回心は、心の病からの快復と同じでした。

 Young Man Luther 『青年ルター』p206の下から5行目途中から。

 

 

 

 

 

要するに、私が是非ともお示しようと思うのは、ルターが「大人にとって心豊かな信頼って,どういうことかを基礎づけた時に、ルター自身が身に着けることがなかなかできなかった大人らしさ、示した,ということです。すなわち、ルターが信頼を回復したことが、ルター自身が,ことを始めることを精力的に取り戻したことに、現れています。信頼の回復が,ことを始めることに表れていることを示すために、私は、3つにポイントを絞ります。1つ目は、声と言葉を、信頼の道具として肯定する点、2つ目は、キリストが受け身の立場に立つことに、神様の「顔」だと認める点、3つ目は、正しい生き方を定義しなす点,です。

 

 

 

 

 座間の事件の容疑者がほしかった顔は,本当は,死人の顔ではありません。

 優しくて,温もりのある声の言葉をかけてくれる微笑みをたたえた顔です。それは,子どものために,我を(自分の利益を)忘れて,関わってくれる母親の,教員の,友人のです。

 我を忘れて関わってくれる顔の人の生き方,その関わりをしてくれる生き方が,キリストが受け身の立場に立つ生き方であり,正しい生き方です。

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小さな哲学者たち

2015-06-17 06:45:08 | エリクソンの発達臨床心理

 

小学生は小さな哲学者。心理臨床をしていますとね、そう感じることが、度々あるんですね。でも小学生ですから、難しい哲学用語を使う訳ではありません。むしろ、国語の力が弱い子どもでさえ、実に深い哲学的な問いを問う場合が少なくありません。

 守秘義務がありますから、ケースのプライバシーに渡る部分を記す訳には参りません。しかし、ケースをデフォルメしながら、小学生が投げかける問いが、実に深い実存的な問いを抱えて生きていることを、皆さんと分かち合いたいと思います。

 ホント? と思う人は、アンパンマンと、やませかたしさんのことを、思い出していただきたいと思います。アンパンマンマーチの歌詞は、その出だしは

「そうだ!嬉しいんだ生きる喜び
たとえ胸の傷が痛んでも

何の為に生まれて 何をして生きるのか
答えられないなんて そんなのは嫌だ!
今を生きることで 熱いこころ燃える
だから君は行くんだ微笑んで。」

 ですもんね。やなせさんによると、大人たちはアンパンマンの価値も、アンパンマンマーチの良さも認めませんでした。そのどちらも最初に認めたのが、2歳、3歳の子どもたちでした。2歳、3歳の子どもは、実存的な問いの大事さを、理性的にではなくて、直感的に確信してんですね。

 前置きが少し長くなりましたね。まあ、回りくどいのが私の常でしたね。今日は、2人の小学5年生と小学6年生(いずれも私が関わった当時)をデフォルメしつつ、ご紹介しましょう。

 5年生は、もともと大人しい男の子。学校には来ていましたが、日々の夜更かしのためか、授業中居眠りしていることが多く、勉強も、スポーツも、人付き合いも苦手。クラスで一番目立たない子どもです。その子とコラージュ(切り貼り絵遊び)療法をしたのは、1年に満ちません。このコラージュでその男の子が表現したのが「一人」=「自由」+「孤独」という実存哲学的な命題でしたね。「えっ、ウソ?」。そんな声が聴こえてきそう。その子は、コラージュ作品を前にして、「1人でいること」が、「嬉しいような」、それでいて「寂しいような」感じがする、と言ったのです。これこそ、1人であることの「自由と孤独」という実存的課題、「一人であること」アローンalone が、「寂しさ」ロンリネスlonelinessであると同時に、「豊かさ」ソリチュードsolitudeでもある、ということですね。

 もう1つの6年生は、コラージュ作品のタイトルからの自由連想法です。タイトルは「丸いケーキ」です。この6年生は、学校では比較的おとなしそうですが、学校外ではちょっと危険なつながりを求めがちでした。「丸い」から連想したのが、さきの5年生と同じ「一人」は「楽しく、寂しい」ということ。「ケーキ」から連想したのが、「命」「目当て」です。「生きる目的」、すなわち、アンパンマンマーチの「何の為に生まれて 何をして生きるのか / 答えられないなんて そんなのは嫌だ!」ですね。

 別に、小学生だから、難しい言葉を言いません。でもね、この2人だけではなくて、小学生の心の奥底には、根源的で、実存的な問いがいつもあります。「何の為に生まれて 何をして生きるのか / 答えられないなんて そんなのは嫌だ!」。なぜなら、その問いに答えたい、という願いこそ、あらゆる人が心の奥底に隠している根源的欲求たがらです。

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