エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

ルターのケツ言葉

2015-06-13 12:02:16 | アイデンティティの根源

 

 トイレの神様からは、実に高貴で無垢な自分が生まれてきます。

 Young Man Luther 『青年ルター』p206の第2パラグラフから。

 

 

 

 

 

 こういったことすべてが、精神医学的に言って、正しいかどうかは、後年、ルターの率直な語り口が、時として、口汚く罵ることに堕した時に、若い頃の愉しげではあっても粗野な感じが、行き過ぎになってしまったという事実によっても、確かめられます。ルターは、暗~い雰囲気で、抑うつ的に、自分を否定することを、ケツ言葉にしました。ルターはかつて夕食の席、憂鬱な気分に襲われたときに、言いました。「僕はね、熟れたウンコで、世界は、バカデッカいケツだ。間もなく、おさらばだなぁ」(少年たちはこの言葉を熱心に書き留めました)。私どもは、ルターが否定しなかったことを見逃してはならないでしょう。

 

 

 

 

 ルターは大胆で勇気があったのは、確かです。しかし、お下品に流れる嫌いがありましたね。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「明るい献身」と「善意の暴力」

2015-06-13 10:26:38 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 
「自分の足で立つ」と「楽しい献身」 
  積み木を解釈する着眼点:その子ならではの要素 ロバートの作品の紹介が終わりました。その中心は挿絵の通り、スッと両手を...
 

 「明るい献身」というと矛盾している感じを受ける方もいるでしょうね。「献身」と言われたら、「苦しいもの」、「辛いもの」と思っている人は特にそうでしようね。あるいは、マザーテレサを想像するかもしません。「偉いのは分かるけど、わたしはちょっと…(関係ないわ)」。

 私は子育てで最も大事なのは、この「明るい献身」だと考えています。それは、子どもが根源的信頼感を育むためになくてはならないものだからです。逆に申し上げれば、今の日本で、これだけ発達トラウマ障害の子どもたちだらけなのは、この「明るい献身」が足りないからだと思います。

 「明るい献身」の反対は、「生真面目な正しさ」です。今の日本の学校で流行っているものなんですね。「明るい献身」はいつでも、陽気で楽しいものです生真面目な正しさ」は、堅苦しく、「善意の暴力」と同じです。少なくとも、子どもにとっては、特に発達トラウマ障害の子どもたちにとっては、まさに「生まじめな正しさ」=「善意の暴力」「教員たちの暴力」です。別に打ったり、叩いたりすることだけが暴力じゃぁないんですね。言葉の暴力のことでもありません。心の態度の暴力こそが「善意の暴力」だからです。

 「明るい献身」は眼の前にいる赤ちゃんに、夢中になっているお母さんが1つのモデルです。おっぱいを上げる時も、オシメを取り換える時も、自分の赤ちゃんがいとおしく、「私のところに来てくれて、ありがとう」という感じで関わります。夜でも、昼でも、そんな気持ちを大事にしていますから、自分の赤ちゃんに関わることに夢中です。別に赤ちゃんと約束したことなど、一度もありませんけれども、一番誠実な約束を、誠心誠意忠実に果たす僕(しもべ)のようですね夢中ですから、自分の苦労も「損」だとは感じないのが普通です。

 「明るい献身」ができない人は、自分の赤ちゃんと関わる時でさえ、自分の時間が気になります。自分の仕事が気になります。自分の…が心残りです。そうすると、不思議なことに、子どもに「正しい」ことを求めたくなることが実に多くなるんですね。不思議です。特に仕事に長時間とられる人がこうなりやすい。心の「遊び」=ゆとり、余裕、を失っていますから、「正しい」ことを子どもに押し付けて、サッサと子どもと関わる時間をおしまいにしなくちゃならない、と無意識裡に、思い込んでんですね。するとね、子どもは「あっ、自分は相手になってもらえないほど、つまらない存在なんだ」=「拒絶された」、と感じていることが非常におおいんですね。仕事をしているお母さん、学校の教員に多いタイプですね。

 ですから、わたしはいつも心掛けていますし、チャンスがあれば繰り返し、申し上げているのが、

 1)陽気で楽しくやりましょう

 2)正しいことより、陽気で楽しい、の方が、はるかに ” 正しい ” 

 3)陽気で楽しい雰囲気で関わると、子どもは自分が肯定されている、大事にされている、と感じやすい

まっ、こんなところです。

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

オヤジの役割

2015-06-13 08:08:15 | エリクソンの発達臨床心理

 

 良い子、悪い子を分けることが、「人間を上下2つの分けるウソ」を生み出すことになります。

 The life cycle cpmpleted 『人生の巡り合わせ、完成版』、p46の下から2行目途中から。

 

 

 

 

 

良い子、悪い子のイメージは、その子どもが、「お前はまだ幼すぎる」だとか、「お前はちょうどいい年頃だ」とか、「お前はもう大きいんだから」だとか、絶えず言われることで、ますますそのイメージが強まるのかもしれませんね。良い子、悪い子のイメージができるのは全て、大事ないろんな愛着関係の行動範囲内のことです。そのいろんな愛着関係の行動範囲には、年上の子どもたちやら、親たちやらも含まれますし、父親がだんだん大事な存在と見なされるようになります。いろんな「いいよ」といろんな「だめ」を強調するけれども、脅かしたり、禁じたりする見た目を、慈しみ深く、指針を示してくれる見守り役を務めることによって、和らげるのが、野太い声で筋骨隆々の父親がやるべきことになります。

 

 

 

 

 ここで初めて、母親から父親にバトンタッチということになります。

 でも、注意しなくちゃならないのは、十分に甘えて、ホッとできる関係があって初めて、「いいよ」と「ダメ」を言われても、子どもは大丈夫になる、ということなんですね。今どきの「愛着障害」の子どもだらけですと、何歳になっても、「いいよ」「ダメ」を言われても、大丈夫ではありません。そんなことを言われたら、愛着障害の子らは、反発や恐怖心を感じて、聞き入れることができません。あるいは、聞き入れたように見えても、それはそのように「演じている」だけなんですね。ここらへんの事情が分かると、子どもとの関わりに深みが出ますよね。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする