ウンコやオシッコでさえ、光になる。そんなこと、ホントにあるの?
Young Man Luther 『青年ルター』p205の第3パラグラフから。
すなわち、1人の回心は、 光が心の中で突然漲る体験ですが、いつでも、否認、清め、イキイキした生き方を連想します。このことは、ルターが全く自由に身体の事を口にしていることと完全に一致します。それは、ルターがこの否認について、全く身体的な言葉で経験もし、報告もできる場合はそうでしょう。トイレは、身体を持つ自分の「もう1つの終着点」ですが、ルターにとっては、機知にとんだ場所でしたし、苦痛な場所でしたし、自分を惑わす場所にもなりました。トイレは、あたかも、「汚れた場」ですし、そこで悪魔に出会うことにもなれば、「魂の故郷」でもあり、神様に出会うことにもなり、そこでは無垢な自分が創造されるのです。
汚い場所から、美しいもの、気高きもの、尊いものなんぞ、生まれない、と考えるのは常識や通念に縛られたものの見方でしょう。神様は、こっちは汚い、あっちは美しい、なんぞと二元的には分けないものなんですね。田中信生先生が話すようでしょ。
かえって、穢れた場所から、最も高貴なものが生まれ、汚いところから、最も美しいものが生まれ、汚辱から最も気高いものが生まれるのです。不思議でしょ。