子どもと関わる時には、子どもとの≪約束≫に基づく関係がとっても大事ですね。
The life cycle cpmpleted 『人生の巡り合わせ、完成版』、p48の第3パラグラフから。訳飛ばしがありましたので、訂正します。
遊ぶ年代がくれる礼拝の根源的な要素は、子どもバージョンの「演じること ドラマティック」です。漸成説の図表が強く主張するのは、しかしながら、「演じる」要素が、「ヌミノース」の要素や「分別」の要素に取って代わるのではなくて、「ヌミノース」の要素や「分別」の要素にプラスさせる、ということです。それは、漸成世の図表が、生育歴で今後辿ることになる要素、すなわち、フォーマル、形を整える要素と、イデオロジカル、価値を見つける要素を予測しているのと同じです。大人の儀式や儀礼、行事で、「ヌミノース」、「分別」、「演じる」要素がないものは1つもありませんでしょ。子どもが遊ぶ面に対応する制度は、しかし、舞台かスクリーンかでして、それは、演じることを、恐れ多い感じに、あるいは、ユーモラスに表現する中で、あるいは、「演じる」出来事が示される、境界線がハッキリしている競技場(広場、お寺、裁判所、入会地)で持ち味を発揮するんですね。「自分はダメ人間」だという感じに善い方向を付ける、創造的な礼拝のやり方が亡くなるとね、「楽しく陽気に」行動をすること、「楽しく陽気に」やる気を出そうとするのを、「それは正しいことではない」だとか、「今遊んでちゃダメでしょ」だとか言って、正しいことを押しつけてダメだしすることになると、私は思いますよ。それを、モラリズム、「善意の暴力」と言う訳ですね。
ここもあっぱれ、エリクソン、ですよね。これこそ、今の日本の学校の多くが陥っている現実ですね。それこそ「善意の暴力」です。
エリクソンが教えてくれるように、「楽しく陽気に」行動すること、「楽しく陽気に」やる気を出すことを認めていく礼拝が、どれだけ大事か、ハッキリ分かります。この礼拝をするのが、今の臨床心理士の役割ですし、ハッピーになることを目指す金森俊朗さん張りの、本物の教師ですね。