ヨハネ23世とユーモア本田哲郎神父のことをお話したときに、ヨハネ23世のことに触れましたね。ヨハネ23世と言ったら、1962年に始まる第2バチカン公会議です。古めかしいカトリックを現代化した......
今宵は、久しぶりにエリック・エリクソンの言葉に学びたいと思います。Toys and reasons: Stages in the ritualization of experience.から。
礼拝(らいはい、ないしは、れいはい)という考え方がこれまで証明してきたのは、人間らしい、陽気で楽しい生き方を、1人の人が育てること(個体発生)と、人びとが共同で育てること(系統発生)を結び付ける上で、なくてはならないものですよ、ということなんです。この人間らしい陽気で楽しい生き方を私は、この本全体で、展開しましたからね。
ちょっと難しい感じがするかもしれませんね。人間らしい、陽気で楽しい生き方は、人間らしい、陽気で楽しい関わりを通じて、人から人へと移るものです。人間らしい、陽気で楽しい生き方を一人の人が育てることは、比較的解かりやすいかもしれませんが、人間らしく、陽気で楽しい生き方を人びとが共同で育てる、って言われたら、?と思ってしまうのじゃぁないかしらね。
でもね、難しく考える必要はありません。たとえば、日本のように法定労働時間が一日8時間と決まっていても、超過勤務を、ただ働きでさせられている日本の様な社会の在り方と、デンマークのように、法定労働時間が1日7時間で、超過勤務をしたら、他の失業中の労働者仲間が働くチャンス(労働時間)を奪うことになってしまうので、やらない社会とでは、どちらが人間らしい、陽気で楽しい生き方を実現しやすいか?を考えたらわかります。そして、人間らしい、陽気で楽しい生き方がどれくらい実現できるのかは、その文化、その社会の在り方に依存しながら、生き方の習慣ができますね。それと同時に、ある社会、ある文化に共通する、その生き方の伝承のパターンができます。この生き方の伝承のパターンを、エリクソンは、キリスト教をベースにしながらも、特定の宗教を超えて、礼拝と呼んだのです。
たとえば、日本の学校ですと、学校の決まりや学校の在り方は、子どもがいくら騒いでも変わりませんよ、諦めなさい、学校の決まりやその在り方に従いなさい、というような、隷属的な生き方、諦め人生が強調され、「子どもの意見は受け付けない」という大人の態度によって、その生き方が拡大再生産されますでしょ。このような破壊的な生き方の伝承は、エリクソンは礼拝とは呼ばずに、偽物の形式主義、あるいは、お役所仕事、と呼んだわけです。