エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

低所得者と教員の子どもに多い、発達トラウマ障害(DTD)

2016-07-30 12:45:30 | 間奏曲

 

 

 
山崎豊子さんの「礼拝」 
 他者感覚=自己中心+他者中心  儀式化=楕円形 : 儀式化のまとめ その12013-07-28 01:18:15 | エリクソンの発達臨床...>続きを読......
 

 

 発達トラウマ障害(DTD)の子ども公衆衛生上でも、社会福祉の上でも、学校教育の上でも、最大の問題だ、と考えますが、ニッポンでは、まだ、発達トラウマ障害(DTD)の存在すら認識されていないのが、悲しき現状です。残念です。子どもが自由に好奇心を働かせるためには、関わる大人が自由で居なくっちゃね。

 The body keeps the score : brain, mind, body in the healing of trauma 『虐待されたら、意識できなくても、身体は覚えてますよ : 脳と心と身体がトラウマを治療する時どうなるか?』p.352の、下から3行目途中から。

 

 

 

 

 

現在、ヘッドスタートの支援を受けた子ども達の50%以上が、3つ以上の不幸な経験(ACE)をしていました。それは、ACE(不幸な子どもの頃の体験)研究と同じです。ACEとは、家庭内で家族が閉じ込められる、家族がうつになる、暴力を振るう、家族の誰かが虐待される、家族が薬物を使う、ホームレスになった時期がある、等です。

 

 

 

 

 

 アメリカの低所得者向けの教育・福祉プログラムがヘッドスタートです。セサミストリートも、そのプログラムの1つだと言います。

 アメリカでは低所得者の2分に1の家庭の子どもは、ACE(不幸な子どもの頃の体験)を3つ以上体験していると言いますから、発達トラウマ障害(DTD)になる可能性が非常に高い。日本でも、低所得程発達トラウマ障害(DTD)になりやすいといえます。

 でも、それだけではありませんね。

 ニッポンの特色は、教員、福祉施設職員などのヒューマン・サービス従事者と、役場の職員のこどもに、発達トラウマ障害(DTD)が多いことです。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

リズムって大事!

2016-07-30 12:06:04 | ブルース・ペリー教授の『犬』

 

 

 

 
あなたの「神の座」にはどなたが座ってます?
  取引しているようじゃ、本当の解決になりません。勇気を出して、立ち向かうと、自分を確かにさせる道が開けます。外でやることと、内でやることは、全く同じことの裏表です。 ......
 

 

 発達トラウマ障害DTD愛着障害の子ども。甘えが全く足りません。触れられることがうれしくなるように、 

 ブルース・ペリー教授の The boy who was raised as a dog の第6章、本のタイトルにもなっている「犬として育てられた少年」のp.142の第4パラグラフから。

 

 

 

 

 

 

 

 コナーのリズム感に働きかける時期が来ました。奇妙のように見えるかもしれませんが、リズムは何時でも取っても大事なんですね。私どもの身体は、命の根源的なリズム、すなわち、心拍が保てなければ、私どもは生きていけませんよね。このリズムを整えることは一本調子とはいきません。心臓も脳も、暮らしの変化に合わせるために、いつもお互いに合図を出し合います。たとえば、心拍は、「戦うか逃げるか」の段になれば、上がりますし、心拍にいろんな求めがあっても、心拍は一定を保つはずです。ストレスがあっても心拍を整えることと、ストレスホルモンを調整することは、脳が適切なタイミングを維持するための二つの大事な働きです。

 

 

 

 

 

 身体は、一定のリズムを保ったり、暮らしの変化に合わせて、身体を整えるための本能的な調整機能があります。不思議でしょ。

 心拍を整えること、ストレスホルモンを調整することが、身体のリズムにとって大事なことらしいですね。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

発達トラウマ障害(DTD)の子どもが信頼するかどうかは、大人の態度次第

2016-07-30 08:02:32 | トラウマを負う≪本当の自分≫を取り戻す

 

 

 
高齢者の課題は、人生全体にあい亘り…
  エリクソンのライフサイクル理論は、高齢者になっても、イキイキ、ピチピチしていることを理論の中に取り込んでいます。すごいですね。  The life cycle co......
 

 

 2年前(2014年)、心理臨床学会の招聘講演で、発達トラウマ障害(DTD)について講演した、Ruth Lanius ルース・ラニウスさんらが昨年出した本、Paul Frewen , Ruth Lanius (2015) , Healing the Traumatized Self   consciousness, neuroscience, treatmet 『トラウマを負わされた自分に対する囚われから自由になること  意識、脳科学、治療』の翻訳。 発達トラウマ障害(DTD)のセラピーだけでなく、発達トラウマ障害(DTD)の元になってる、家庭、学校、職場などでの、ネグレクトや虐待を止めなくてはなりません。 

 最終章の第7章、p.279の、第2パラグラフから。

 

 

 

 

 

 

 このような発達トラウマ障害(DTD)の子どもとセラピストとのやり取りを通して、ひとりびとりのひとが、治療に関わることに関する理解が、まともなものとなり、また、共感をもって認められるようになりますし、セラピストは自分に何ができるかを、いつでも追い求めて初めて、クライアントが、セラピストとの関係、治療に対する不安や、未知なるものに対する怖れを和らげることができます。クライアントのニーズにも、セラピストのニーズにも基づいて、やり取りの境界線を文句のないものにし続けることは、セラピー関係を信頼してもらうためにはなくてはなりません。

 

 

 

 

 

 ロジャースではないければも、セラピスト(大人)の態度が大事でしょ。セラピストが自分への問いを問い続けることによっと初めて、クライアントとの関係が信頼されるものになる訳です。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

津久井山ゆり園の「犯人」の「首」は切られていた!

2016-07-30 06:16:46 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 

 
山崎豊子さんの「礼拝」 
 他者感覚=自己中心+他者中心  儀式化=楕円形 : 儀式化のまとめ その12013-07-28 01:18:15 | エリクソンの発達臨床...>続きを読......
 


 津久井やまゆり園の事件。衝撃的でしたね。ニュースでは、大島衆院議員議長への手紙、犯行の詳細、本人の勤務履歴は報道されます。あるいは、大麻によって「一時的に狂った」から、今回の犯行に至った? というニュアンスの報道もあります。何かに原因を特定しないと、多くの人が抱いた不安に決着がつかないからだろうと感じますね。

 不謹慎かもしれませんが、今回の津久井やまゆり園の犯人の犯行を1つの「遊び」と捉えたいと、私は考えています。それはこの「犯人」の心理を、サイコセラピストとして考え、その考えを、このブログの読者にお読みいただいて、心の闇とその再生の可能性をご一緒に考えたいと願うからです。

 「遊び」は、エリクソンが常々言うように、自分がモデル状況を創り出して、自分の問題に折り合いをつけるための実験の子ども版です。子どもは、遊びを通して、自分が解決できないでいる心の葛藤に、何とか折り合うことができる道を付けたい、と願うものなんですね。

 今回の事件は、何十人もの知的な障害者が、首を深く刺されて、亡くなった事件でしたね。首は、頭と胴体を繋ぐ要です。私は、首を刺したことに、この犯人の「心の葛藤」か表現されていることを感じます。

 今回の犯行を、「犯人」が受け身で体験していたことを能動的に再体験して、過去の受け身で体験してきたことに折り合いをつけようとした試み、と見たらどうでしょうか? また、この「犯人」は、幼いころの事実は分かりません。ですから、以下に記すことは、あくまでも、憶測に基づく仮説でしかありません。

 エリクソンは、一歳半から三歳くらいの子どもの子育てについて述べるところで、人が「恥知らず」になることと「人殺し」のことを取り上げているところがあります。いま、エリクソンの言葉をご紹介しているChildhood and Society 『子どもの頃と社会』のp.253です。昨日取り上げたところの1ページ前のところに出てくんですね。

 この「犯人」の父親は小学校の教員だと言いますね。私も小学校の教員とは長年付き合いがありますが、少数の例外を除いて、「教えたがり」、「正しいことを押し付けるタイプ」が非常に多い。この「犯人」も「正しいことを押し付けられて」育ったと想像します。

 そこで、エリクソンの言葉

「恥をかかされ過ぎると、礼儀正しくはなりません、むしろ、反抗的な恥さらしにならないまでも、コッソリと、事をなそうするようになります。…小さな子どもが、耐えられない位に恥をかかさせると、(「目くらになれ」というような憎まれ口と)同じような言葉で、反抗したい気分(…)がずっと続くことが多いんですね。…つまり、子どもにも、大人にも、ガマンの限界があるっていうことです。そのガマンってものは、自分自身や、自分の身体や、自分の願いを、「ダメだ」とか「汚らしい」だとか考えなさいと言われても、ガマンの限界があるという訳です。その「ダメだ」とか「汚らしい」とか、と判断するものを「間違っていない」と信頼し続けることにも、ガマンの限界がある、ということです。そんなことを言わたら、逆効果で、そんなことを言う者がいること自体が、「悪い」と思うようになりがちです。その子にチャンスが訪れるのは、「ダメだ」とか「汚らしい」と決めつける者がいなくなった時、自分から離れた時です。」

 かくして、「犯人」は、物心つく前の小さい頃から、自尊心を奪われるくらいに「正しいことを押し付けられ」て、激しい怒りを無意識にため込み、反抗したい気分が、ずっと続いていたと思われます。それは、自分と、自分の身体と、自分の願いを、頭ごなしに「ダメだ」とか「汚らしい」とかと、押し付けられて、頭と身体が分裂してしまっていたと感じますね。この「犯人」の、頭と身体を繋ぐ「首」が切られていた、と私は見ますね

 その反抗したい気分を、恥知らずに、その「首」を傷つける暴力という形で、弱い立場の人等にぶつける(投影)チャンスが訪れたのは、教員の父親らが、転居した後、のことでしたね。

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする