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エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

発達トラウマ障害(DTD)のニーズに真の意味で注目してくれたら

2016-07-26 08:09:50 | ヴァン・デ・コーク教授の「トラウマからの

 

 

 
円満と平和 改訂版
   日本の「いじめ」と「無責任」を打破するためには...。  配慮が行き届いていて、陽気で楽しく繰り返される、日々の習慣2013-07-23 03:2......
 

 

 発達トラウマ障害(DTD)の子ども公衆衛生上でも、社会福祉の上でも、学校教育の上でも、最大の問題だ、と考えますが、ニッポンでは、まだ、発達トラウマ障害(DTD)の存在すら認識されていないのが、悲しき現状です。残念なことですが、今、ニッポンで、発達トラウマ障害(DTD)の子ども達にやっているほとんど全部が、関わる大人が子どもっぽい人が多いことと相まって、発達トラウマ障害(DTD)をますます悪くする関わりだ、と言っても、少しも過言ではありません

 The body keeps the score : brain, mind, body in the healing of trauma 『虐待されたら、意識できなくても、身体は覚えてますよ : 脳と心と身体がトラウマを治療する時どうなるか?』p.352の第2パラグラフから。

 

 

 

 

 

 私どもの社会が子ども達のニーズに真の意味で注目すれば、あらゆる家族に対する社会的な支援が、わが国の政策は保守的なままですけれども、徐々に望ましいものなっているばかりか、実行可能なものにもなることでしょう。もしも、アメリカの子ども達が全て、質の高いデイケアに繋がり、そこでは、親が仕事や学校に行く間、子ども達を安心して預けることができるとしたら、どんなでしょうか? もしも、子ども達が全て、質の高い保育士のいる保育所に行けて、そこでは、協力すること、自分のことは自分でやること、ガンマすること、自分がやることに集中することを学べることになったら(これは、試験に合格することに心を砕くこととは正反対。子ども達は、いろんなことを調べたいという、自分の好奇心や願いに従うことを許されて、絶望だとか、怖れだとか、過覚醒だとかによって、邪魔されることはありません)、わが国の学校教育はどうなるでしょう? 

 

 

 

 

 

 私も強く強く願います。多くの日本市民が、発達トラウマ障害(DTD)の子どもの存在を認めて、発達トラウマ障害(DTD)のニーズに真の意味で注目してくれたら…

 

 

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発達トラウマ障害(DTD)向けのマッサージ・セラピーは、これだぁ!

2016-07-26 06:58:04 | ブルース・ペリー教授の『犬』

 

 

 
十字架のシンボルと天にも昇る悦び
  ルターは心の中に完全な方を見つけることから、救われることを強調した、と言います。 Young Man Luther 『青年ルター』p214の第2パラグラフ5行目途中......
 


 

   発達トラウマ障害DTD愛着障害の子ども。甘えが全く足りません。マッサージという簡単な方法が、その甘えを提供するうってつけの方法になります。

 ブルース・ペリー教授の The boy who was raised as a dog の第6章、本のタイトルにもなっている「犬として育てられた少年」のp.141の第3ラグラフから。

 

 

 

 

 

 コナーのママは、コナーがマッサージ・セラピーをしている時に、その場にとどまっていましたから、私どもはコナーのセラピーに、ママにも参加してもらうことにしました。もし、コナーがタッチされることをストレスに感じたら、ママにコナーをなだめて、コナーを楽にしてあげて下さいってお願いしました。それからまた、ママに、「コナーに対して大事に思う気持ちを身体で示す方法も学んで下さいね」、とお願いしました。それから、「赤ちゃんの時にコナーが手にすることが出来なかったハグや温もりのあるタッチをして挙げて下さい」とも申し上げました。このようなマッサージ・セラピーは、段階的に、計画的に、繰り返しでやりました。最初は、コナーの両手から初めて、腕のマッサージに進み、肩、胴体のマッサージとなります。私どもはコナーの苦悩を確かめるために、コナーの心拍をチェックします。コナーが自分の身体に触れることがコナーの心拍に変化をもたらさない時には、ママに、同じ用に繰り返し段階を踏んだマッサージを、コナーにして貰いました。最後には、ママがマッサージをやっても、コナーは不安になることはありませんでしたから、マッサージ・セラピストは、いつもの治療マッサージに戻しました。

 

 

 

 

 

 マッサージ・セラピーがどんなものか、分かりましたね。段階的、慎重さ、繰り返しの点で、その他の発達トラウマ障害(DTD)のセラピーと似ていますね。

 

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発達トラウマ障害(DTD)の子どものケアは、生活を人間らしくものに変えること

2016-07-26 03:47:10 | トラウマを負う≪本当の自分≫を取り戻す

 

 

 
「希望」の発展型としての 「本気の関わり」 改訂版
  年寄りが老賢者であることを止めて久しいですね。日野原重明先生や柴田とよさんなどのごく少数のお年寄りと、福祉と医療の世話になる、大多数の高齢者に分かれてしまいました。......
 

 

 2年前(2014年)、心理臨床学会の招聘講演で、発達トラウマ障害(DTD)について講演した、Ruth Lanius ルース・ラニウスさんらが昨年出した本、Paul Frewen , Ruth Lanius (2015) , Healing the Traumatized Self   consciousness, neuroscience, treatmet 『トラウマを負わされた自分に対する囚われから自由になること  意識、脳科学、治療』の翻訳。 発達トラウマ障害(DTD)のセラピーが始まっても、家庭、学校、職場などで、ネグレクトや虐待が続く方が普通です。 

 最終章の第7章、p.277の、ブランクの後の第2パラグラフの9行目途中から。

 

 

 

 

 

 このような状況では、クライアントのトラウマは、終わりがありませんでしょ。これは、比喩で言っているのではなく、文字通りの意味ですね。セラピーでいい結果がもたらされるはずがないのは、心理面接を受けている間もずって、現在進行形の暴力や虐待を実際にに経験しているクライアントでしょう。

 

 

 

 

 

 したがって、発達トラウマ障害(DTD)の子どもが心理面接を受けて入りゃあ、それでいい、という訳には行かない訳ですね。それだけじゃ、全く足りません。

 暴力や虐待、あるいは、ネグレクトや間違った投薬がある場合は、家庭環境、学校の状況、医療サービスの、変更、転換、改革が必要になります。すなわち、生活環境の具体的な改善が必要です。ソーシャルワーク、コミュニティワークと呼ばれる領域ですね。それが果たされなければ、心理面接だけしていても、何の意味もない、と言っていいでしょう。

 

 

 

 

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「毎日が退屈」と感じているあなたへ 神様の悦び

2016-07-26 03:10:27 | 聖書の言葉から

 

 

 
円満と平和 改訂版
   日本の「いじめ」と「無責任」を打破するためには...。  配慮が行き届いていて、陽気で楽しく繰り返される、日々の習慣2013-07-23 03:2......
 

 今宵も、Childhood and Society 『子どもの頃と社会』の至言は、一回お休みして、昨日に続き リチャード・コート著 木鎌安雄訳の『笑いの神学』(聖母文庫)、Cote, Richard G. Holy Mirth: A Theoty of Laughter, The Alpine Press, 1986から。P.82-83の至言から。

 

 

 

 

 

 私がここで「魂の退屈」と申し上げていることは、心が寂しく悲しくなることです。心が寂しく悲しいままでは、眼の前の≪いまここ≫が、いかに素晴らしい瞬間なのかが分からなくなります。退屈の果てしない繰り返しとなれば、毎日福音を伝える務めが、いかに気高いものかを見失ってしまいます。…神様のユーモアにある、深い真理と美しさのお陰で、毎日の暮らしが、倦怠ではなくて、チャンスとなります。私どもの魂が眠っているようなところにこそ、1つの答えが隠れていることに気付かせてくれます神様の悦びは、思いがけないところに、ありえないタイミングで、隠れているものですし、そうであればこそ、神様は、ユーモアの分かる人を悦ばれるわけですね。

 

 

 

 

 毎日が退屈、と感じる人は、感性が鈍磨しているのです。魂が新鮮さを失っているのです。それはつまり、視座が「通念」に縛られている、ということです。

 ユーモアとは、視座をいつでも「弱い立場」「低い立場」に持っていけることを意味します。それは、視座をいつでも「通念」の縛りから解放させることに通じています。このように、自由に視座を変えることができますと、面白み、可笑しみ、愉しみ、微笑みを、いつでも、どこにでも、見つけ出すことができるんです

 あなたも、毎日を楽しくしてみませんか?

 

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